ドキュメンタリー映画『黒川の女たち』への映画評を、『映画芸術』8月号よりご了承を得て、転載します。
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「人柱」から歴史の主体者へ―変化の瞬間を捉えた貴重な記録
◆平井和子(一橋大学ジェンダー社会科学研究センター客員研究員)

『映画芸術』2025年8月号の表紙より
「人柱」の女たちの名乗り出の意義
「団の自決を止める為 若き娘の人柱 捧げて守る開拓団」-これは岐阜県白川町の神社に2018年に建てられた「乙女の碑」の碑文に刻まれた言葉である。敗戦時、ソ連兵へ「性接待」に出された15人の女性たちの一人、安江善子(よしこ)さんの書き残した文章の一部だ。
実は、敗戦時の日本「本土」でも「人柱」は、アメリカ軍を中心とする占領兵へ向けて差し出された。政府の意を受けた警視総監から「性の防波堤」をつくるように要請された「特殊慰安施設協会」(RAA)は、設立時の声明書で、「性的慰安」に充てる女性たちのことを「「昭和のお吉」幾千人かの人柱」と記している。この「人柱」として真っ先にターゲットとされたのは娼婦たちであった。女性を守るべき女性/差し出すべき女性に二分化する家父長制イデオロギーは、勝利した将兵へ、娼婦や後ろ盾の無い脆弱な女性、そして黒川開拓団のように未婚女性(出征兵士の妻ではない)に犠牲を強いる。わたしは長年、アメリカ占領下で「慰安」という名の性暴力にさらされた女性たちのことを調べてきたが、「慰安所」をつくった男性たち側の記録はあまたあるのに、被害当事者の声は歴史の闇の中に葬られたままであることに無念さを噛みしめてきた。どうしたら、彼女たちと出会えるのだろうかと模索してきた。
だからこそ、2013年に佐藤ハルエさん、安江善子さんが公の場で自らの体験を語られた意義は強調してもし過ぎることはない。共同体が秘匿してきたことが暴かれ、団の公的記録に亀裂が入った。不都合な歴史に向き合おうとする戦後生まれの遺族会会長夫妻や、サバイバーとして証言を続けるハルエさんをはじめ、「性接待」に出されたお姉さんたちのために風呂焚き・洗浄に当たった女性たちにもメディアが注目し、複数の優れたドキュメンタリー作品がつくられた。今回、松原文枝監督による本映画は、前作がリレーでつないできたバトンを受け取り、2024年に亡くなったハルエさんのラスト・メッセージを伝え、新たな証言者の力強いカムアウトと、この歴史を教育の場で引き継ごうとする教師の試みも盛り込まれた、集大成である。
「ちゃんとした形で、ちゃんとしてくれた」- 声に応答する遺族会の尽力
戦後生まれの遺族会会長・藤井宏之は「呼び出し係をしていたあんたのお父さんが怖かった」と語る被害女性たちへ行脚を続け、サバイバー女性たちへの応答として「乙女の碑」の傍に2018年、「碑文」を建てた。1981年建立の「乙女の碑」とだけ書かれた地蔵像は、「人柱」にした娘たちへの団員たちのうしろめたさの証であった。新たに添えられた碑文には、冒頭に紹介した善子の言葉や、団が秘匿してきた「性接待」の事実、その背景にある「満洲国」をめぐる加害と被害の歴史的構造が後世の者に伝わるように書かれている。性暴力被害者の意向を尊重し、何度も推敲を重ね、長文の碑文が完成した。
碑文が建てられてから5年後、2023年の秋に、それまで遺族会とは距離を持ち、取材には顔を隠し、低い声で応えてきたサバイバーの一人、玲子さんが藤井会長夫妻を笑顔で迎えるシーンは感動的だ。転機は、玲子さんたちのことを書いた本が出版され、それを読んだお孫さんから「祖母ちゃんが自殺しないでくれてよかった」という全肯定の手紙を受け取ったことだ。「汚い」と言われることを恐れていた玲子さんのトラウマは癒され、周囲の人々は彼女が「よく笑うようになった」という。カメラに向かって玲子さんは、「ちゃんとした形で、ちゃんとしてくれた」という。玲子さんに続いて、水野たづさんも顔と名前を出して語り始めた。2022年に出版された本では、仮名になっていた彼女が、ビデオ撮影に際し、「お名前を入れてもいいですか?」という問いかけに、「いいですよ」とはっきり答え、これからも「頑張るぞーっ!」とこぶしを突き上げた。この姿には既視感がある。それは、韓国の日本軍「慰安婦」被害女性が、長い沈黙を破って公言し、責任の追及をするアクテッブな存在となった時の姿と二重写しになる。
「汚れた」というスティグマを自ら剥ぎ取り、「このことをなかったことにはさせない」と、力強い語り部に成っていく女性たち―この目を見張るような変化の行程を、この映画は、わたしたちの前に可視化してくれる。被害者が未来へ向けての歴史的主体に成っていくことを可能にしたのは、黒川遺族会の人々の「不都合な歴史」に向き合おうとする真摯な努力があることも、この映画は伝えてくれている。それは、オーストラリアのテッサ・モーリス=スズキのいう連累(implication)-過去の「罪」に直接関係はないが、その暴力による恩恵を享受したままの社会を生きる「不誠実さ」を深く自覚し、それを断ち切ろうとする黒川開拓団関係者たちの誠実な取り組みである。

画像:『黒川の女たち』映画サイトhttps://kurokawa-onnatachi.jp/
そこに「売春婦」は入っているか?
この感動的な映画を受け取りつつ、歴史家としてのわたしには、わたしたちに託されたいくつかの課題が頭に浮かぶ。団の集合的記憶となっている「集団自決か/「性接待」か」という二者選択の枠組みを一度疑ってみる必要はないだろうか。長年、黒川遺族会の人々に聞き取りをしてきた猪股祐介や山本めゆが指摘するように、団員の男性たちとソ連司令官の間には、酒宴などを通じた男同士の親密な交流があったことをどう考えるか(注1) 。1980年代という早い時期に、何日も泊りがけで善子に聞き取りをした作家の林郁は、北方から団へ身を寄せた「娼婦」や日本軍「慰安婦」らしき女性たちが存在し、自死も考えた娘たちに「我慢しても生きたほうが勝ちよ。ロスケにパンやスープをねだるんだよ」と励ましたことを書き留めている(注2)
。彼女たちの存在は不可視化されていないか?
わたしは、拙著『占領下の女性たち―日本と満洲の性暴力・性売買・〝親密な交際″』(岩波書店、2023年)の第2章で、開拓団だけではなく、引き揚げ途中の列車のなかで、各都市の避難所で、ソ連兵や中国人男性へ、真っ先に差し出された多くの性売買女性(売春婦)たちのことを記した。「乙女」とネーミングされた碑のなかに、彼女らの居場所はあるだろうか? 敗戦による国家や共同体の危機に際して、日本「本土」でも旧植民地でもまっさきに「人柱」にされた無数の「売春婦」たちの尊厳は未だに回復されていない。
彼女たちのことも「なかったことにはできない」。
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(注1) 猪股祐介「語り出した性暴力被害者-満洲引揚げ者の犠牲者言説を読み解く」『戦争と性暴力の比較史へ向けて』(岩波書店、2018年)、山本めゆ「引揚げの記憶/報道/研究における「娼婦」の他者化―黒川開拓団・遺族会の経験を通じて―」『日本史研究』734号、(2023年10月)を参照されたい。
(注2)林郁『大河流れゆく―アムール史想行』(朝日新聞社、1988年)96ページ。
〜WANサイトより関連情報〜
◯(上野千鶴子さん寄稿)
「上野千鶴子氏が読み解く トラウマとスティグマからの解放」 https://wan.or.jp/article/show/11955
◯ドキュメンタリー映画『黒川の女たち』鑑賞 感想・レビュー https://wan.or.jp/article/show/12025
◯もりおか女性センターフェスティバル2025『黒川の女たち』上映会 2025年9月13日(土曜)https://wan.or.jp/article/show/12067
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