第35回上野ゼミ 「青踏」における「女性」概念

◆報告者:蔭木達也(慶應義塾大学 博士課程院生)
専門は社会思想史。研究対象は高群逸枝と同時代の思想史。

◆コメンテイター:米田佐代子
1934年東京生まれ。東京都立大学卒業後同大学助手を経て山梨県立女子短期大学教授を10年だけつとめ、2000年3月定年退職。平塚らいてうを中心に近代日本の女性思想を研究。実生活では「夫婦別姓(残念ながら通称)」のハシリ。共働きで二人の子を育て、大学では女性最初の教職員組合委員長として、赤ん坊を連れて団体交渉に行ったことも。
現在、NPO平塚らいてうの会会長兼「らいてうの家」館長(じつは使い走り)。らいてうの家で「森のやまんば」を自称、但しらいてうの家は11月から翌年4月まで冬季休館するので、1年の半分は「まちのやまんば」。
現在のテーマは「ただ戦争だけが敵」と言ったらいてうの平和思想を現代の平和構築に生かしたいと研究中。詩人の高良留美子さんが個人で「草の根の女性文化発信に光を」と創設した「女性文化賞」を第21回の2017年から引き継ぎ、これもらいてうの精神の継承と思っている。2018年は「年女」ゆえ、「イヌの遠吠え」に終わらない発信をしたい。

◆報告概要: 平塚らいてうの「原始、女性は太陽であった」という言葉はよく知られています。しかし、ここにある「女性」とは、誰のことを指しているのでしょうか。このフレーズが掲載された『青鞜』創刊の1911年当時、「女性」は今のように広く使われる言葉ではありませんでした。また、その後の『青鞜』誌上でも「女性」という概念はあまり使われておらず、「女性」概念自体が「女」や「婦人」とは異なる特殊な概念として機能していたことが伺えます。本報告では、従来あまり論じられてこなかった上野葉子や岩野清子などの『青鞜』同人による「女性」をめぐる議論、その後のいわゆる「母性保護論争」、そして1920年代前半の「女性」を冠した雑誌の相次ぐ創刊という流れに注目し、「女性」概念がどのように定義され、変化していったのか、その思想史を紐解きます。
それを踏まえて、当時の論者たちが考えていた「女性」とは誰なのか、そしてその人たちはなぜ「女性」を新たに定義しようとしたのか、ということをみなさんとディスカッションできたら面白いと思っています。
参考:荻野美穂「女性史における<女性>とは誰か」田端泰子・上野千鶴子・服部早苗編『ジェンダーと女性』早稲田大学出版部、1997年、115-134頁