③ 当たり前ではなかった大学進学 アメリカでの個を磨く時間
進学を反対されていた私は半ばやけくそで受験勉強に励んだ。でも数学はできなかったので共通一次試験は望みなく、父には内緒で私学を受験して、合格の報告は母と学校の先生が先だった。喜んでくれない父には後で報告して進学の希望を伝えたが、頭ごなしに否定され、私ではとても説得できなくて、私は高校の校長室を訪ね、「勉強したいのですが父が折れてくれないので先生が説得してください」と頼んだ。校長先生は家に来てくれて、「お金のことはどうにでもなりますから、今この人に勉強させてあげてください」と言ってくれた。奨学金の特待生制度を使えた。権威には弱かったのだろう。父は苦虫をかみつぶしたような顔で了承はしたものの、まったくもって喜んではくれず、死ぬまで私に「お前は大学進学して人生間違った」と言い続けた。
その校長先生は絵を描く方で、心斎橋の画廊で個展を開かれるような腕前だった。大学時代に私は何度か先生の個展でギャラリーの留守番のアルバイトを仰せつかった。卒業後も気にかけてくださっていたのだった。先生の優しい色彩の詩的な作品に囲まれて過ごすのは、私にとって至福の時間だった。先生を訪ねて来られたお客様が差し入れてくださった高級菓子や珍しいお酒を、先生はお土産に持ち帰らせてくださった。幸福感に満たされていた。
ずっとのち、子どもが5歳くらいの時の新聞に、その先生が春か秋の叙勲で受章されたことが載っていた。名前を見つけた私は嬉しくて、卒業アルバムにあった先生のご自宅の電話番号にかけたのだった。「今は時任玲子です。が、高校生の時は○○と言いました」と電話口で私が名乗ると、「ああ、覚えていますよ。英語がよくできた・・・」とすぐに思い出してくださった。ちっともお声の変わられない先生としばしおしゃべりできて、私はその先生に再会したくなった。が、先生は「今の私は年老いたので、50代の私のことを忘れないでください」と言われ、再会はかなわなかった。
その先生がおっしゃった言葉、「個を確立して、他と連帯して生きよ」は、今もずっと通奏低音のように私の心に響いている。

アメリカ滞在時にお世話になったOさん
19歳の時、夏休みが始まる1日前の6月30日に、私は初めて飛行機に乗り、アメリカへ渡った。7月1日に搭乗すると、飛行機代が大幅にアップするからだ。滞在先は母の友人のOさん宅で、私が英語を習い始めて、覚えた英語を幼いながらも書き連ねて、文通した相手である。How tall are you? なんて書き送った記憶がある。
母より数カ月年上のその人は、Aさんと同郷で、しかも名前が似ていた。日系アメリカ人で、収容所も経験されご苦労なさったが、それだけに大変穏やかで親切な紳士だった。Oさんはアメリカンロッキーのきれいな絵ハガキや雑誌など、私が興味を持ちそうなものをいろいろと送ってくださった。アメリカから届く品々に刺激を受けて、私はアメリカに行ってみたいとアルバイトでお金を貯め、当時必要だったビザもパスポートも自分で用意して、「明日から行ってきます」と日本を発ったのだった。

Oさんが当時の皇太子夫妻に渡したアメリカ黄バス(王子蓮)と大賀ハスを掛け合わせて生まれた舞妃蓮は気品漂う花だ
Oさんの功績もハスが関係する。アメリカには黄色いハスが自生していて、それは日本にはないものだ。昭和天皇が植物好きだったこともあって、ちょうど当時の皇太子夫妻(現在の上皇夫妻)がアメリカにいらした時に、そのアメリカ黄バスの実を託された。1960年秋のことだ。それが研究者だったAさんに渡って、翌61年に発芽させ、黄色いハスが日本に開花したのだった。その黄色いハスはそういうエピソードから「王子蓮」と名付けられた。王子蓮と大賀ハスを掛け合わせたものが、世界的なフラワーアーティストの心をわしづかみにした舞妃蓮である。美しい花だ。交配、育成されたのがAさんの弟子の阪本祐二さんで、68年に和歌山から皇居に送られた。美智子さまをイメージした花だそうで、舞妃蓮はその後東京大学緑地植物実験所で育成され、98年から皇居で栽培されるようになった。
コロラド州デンバーのOさん夫妻宅に私はまるひと月以上お世話になった。あとの半月は自分で知り合いを頼って移動した。日本にいる間からOさんは、デンバーに住む同年齢のアメリカ人を紹介してくださり、若い人たちとも交流した。毎日がパーティーのようだった。デンバーという街は、街全体が高地にあって、Capital(市庁舎)の階段の途中に、“Mile High”と刻まれている。別名Mile High Cityという。もっともその階段の印は後で正確な測量をしたら少しずれていたとわかったらしいが・・・。もともとが高地にあるので、車で少し行けばすぐに標高が高くなって、これ以上は木々が育たない境目Timber Lineが現れる。高い山々には本当に神様がいそうだった。私は富士山にはまだ登ったことはないが、富士山より高い山へは今までに2度登った。一つ目がアメリカンロッキーで、二つ目がスイスアルプスである。酸素が薄くて、少し歩いただけでも息が切れた。

アメリカ滞在中、Oさんはいろいろな所へ連れて行ってくださった
Oさん夫妻は普段は日本語を話されるので、私は日本語と英語を日常に聞いた。おもしろかったのが、「美味しい」というOさんの発音が、私にはどうしても「おいC」と聞こえるのだった。そのうちに英語でしゃべっている夢を見るようになった。不思議だったのは、夢の中でネイティブスピーカーのしゃべる英語も自分の頭が考えている、ということ。当時すごくおもしろく感じた。若い感性で異文化にどっぷり浸れる経験は本当に良かった。自身が日本のことをどれほどよく知らないかも、海外に出て初めてよく分かった。自分が外国人になる経験を経ないと見えてこないものがいっぱいあった。
2カ月の夏休み期間のほとんどをアメリカに過ごして痛感したのが、日本ではなんとなく「話さなくてもわかる」と相手に気持ちを察してもらえる期待が持てるようなシーンでも、アメリカでは「話さないとわからない」が前提になっているということだ。私はこれにするけど、あなたはどう?一緒なんて言わないでね、私とあなたは違うのだから・・・。私の過ごしたアメリカでの時間は、こうした「私は私、あなたはあなた」を極めていくような作業の連続だった。当時19歳のダイアナとチャールズのロイヤルウエディングのライブをアメリカで見た。同じ19歳で、よく結婚したなぁと、ウエディングドレスの長~いトレーンを眺めながら思ったものだ。
いやになるほど長い時間飛行機のエコノミークラスにいて、もう当分こんなに長い時間飛行機に乗りたくないと思った。アメリカでは赤ちゃんのクッションくらいのステーキや小さいバケツほどもあるアイスクリームを食べさせてもらって4キロ太ったが、帰りの飛行機でへとへとになって、帰国したときは元の体重に戻っていた。日本の、湿気に抱きしめられるような夏の暑さが体に堪えた。(続く)
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