東京・八王子。高尾山のイメージが強いこの街に、実は本格的な酪農牧場がある。八王子の住宅地のすぐそば。70年以上続く「磯沼牧場」だ。場所は新宿駅から京王線高尾山口行で北野乗り換え2つめ山田駅まで48分。駅から徒歩3分。牧場の敷地内には、洗練されたレストランとミルクスタンド、そして「日常を豊かにする食と暮らし」を提案する空間が広がっている。それが2022年にオープンした「TOKYO FARM VILLAGE」だ。
「TOKYO FARM VILLAGE」では磯沼牧場で生産されたミルクからのヨーグルトや焼き菓子などの商品を販売し、この場を実質的に動かしているのが、磯沼牧場15代目、磯沼杏さんだ。酪農家の娘として生まれながら、いま彼女が担っているのは、牛を飼うことそのものではなく、「牧場の価値をどう社会につなぎ直すか」という仕事である。
牧場が一望できるレストランが誕生
TOKYO FARM VILLAGE(東京ファームビレッジ)の、この土地はかつて借地で放牧地だったが、売却話が持ち上がり、マンション建設の可能性もあった。「この景観を失いたくない」。そこで浮上したのが、牧場の価値を伝える“食の拠点”という発想だった。八王子を中心に展開する洋菓子店BASEL(渡辺 純代表)との協働により、牧場を一望できるレストランと直売所が誕生した。

TOKYO FARM VILLAGEの店の前に立つ杏さん
店内にはISONUMA MILK STAND が併設され、ヨーグルト、ミルク、ソフトクリーム、プリン、焼き菓子などが並ぶ。店内の料理には磯沼牧場の乳製品と、近隣農家の野菜がふんだんに使われている。
「牧場の遊休農地を生かして栽培した花はドライフラワーにしています。インテリアの家具類は、社長にディレクションしていただきました」と杏さん。

店内 奥が食事処 右手はミルクやヨーグルトがあり、左手には焼き菓子など販売

TOKYO FARM VILLAGEの外観 風景に溶け込むように設計されている

牧場側にはテラスがあり牧場と高尾山までの風景が一望できる
牧場の三次産業を引き受けるという覚悟
磯沼牧場は、父・磯沼正徳さんが長年守り続けてきた牧場だ。
「磯沼牧場って、実ははっきりした組織図があるわけじゃなくて、父・正徳がずっと“一匹狼”でやってきた牧場なんです。だから今も明確な役職があるわけではないけれど、私が主に担っているのは、一次・二次・三次産業でいうと、二次と三次。つまり「作ること」と「売ること」、製造と販売が自分の主な持ち場です」
ヨーグルト工房では、30年選手の製造スタッフと並走しながら技術を受け継ぎ、定期的に必ず製造に入る。一方で、店頭に立ち、ネットショップを管理し、商品の企画、構成や売り場づくり、価格設計までを一手に引き受ける。
「ヨーグルト工房にはベテランの製造スタッフがいるので、これまでの経験やノウハウ、情報が途切れないように関わっています。販売管理や出荷、ネットショップ、店頭販売も私の担当で、土日は今でも店に立っています」

TOKYO FARM VILLAGEのソフトクリーム

TOKYO FARM VILLAGEのホットミルク
「酪農の現場も、完全にノータッチというわけにはいきません。搾乳にも週に一度は入って情報交換をしています。誠意を持って販売するためにも、現場と関わりながら作られたものを、どう価値に変えて伝えるか。それが私の役割です」
この役割を明確にするため、2023年、杏さんは販売部門を法人化し、「株式会社Dairy&Farmy(デイリー&ファーミー)」を設立。10人のスタッフを雇用し、年商は約8000万円規模にまで成長している。法人化の目的は、単なる事業拡大ではない。税務や相続の問題、そして何より、スタッフが安心して働き続けられる環境を整えるためだった。
「事業は“想い”だけでは続きません。社会保険や月給制は、遅ればせながらですが、未来のために必要なことでした」
「牧場らしさ」を押しつけない売り場づくり
敷地内のレストラン「FARM B A S E L」は、大人のデートや女子会にも選ばれる店だ。
「牧場に行こう、ではなく、“素敵な店があるらしい”と来たら、実は牛がいた。その驚きが、牧場との新しい出会いになるんです」
売り場づくりにおいて杏さんが大切にしているのは、「何でも屋にならない」こと。基準は一貫している。
・磯沼牧場のミルクや農に関わること
・TOKYO FARM VILLAGEの世界観に合うこと(上質・豊かさ)
「ここはリアルな生産現場と長い歴史の上に立つ場所。
そのブランド価値を高めるためにも、道の駅にはなりたくないんです」
焼き菓子やアイス、雑貨に至るまで、複数の工房やメーカーと連携しながらも、パッケージや見せ方は統一。“牧場でしか買えないもの”を、丁寧に編集している。地元の業者に依頼して明確なコンセプトで商品化したもの。福祉事務所と連携した牛の形をした可愛らしいクッキーもある。


牧場とミルクをテーマにした商品群
杏さんが特に力を入れているのが、牧場見学や体験学習だ。八王子市内の小学校を中心に、年間十数校が訪れる。伝えているのは、難しい理屈ではない。

都市に牧場がある意味を、子どもにも大人にも
杏さんが特に力を入れているのが、牧場見学や体験学習だ。八王子市内の小学校を中心に、年間十数校が訪れる。伝えているのは、難しい理屈ではない。
「牛1頭で、給食の牛乳が何人分できると思いますか? 実は、最近は、学校の児童数がへっていて、そうすると学校全体のミルクを1頭でまかなえたりもする計算になるんです。ホルスタインなら1日40Lくらいで、牛乳瓶なら200本分くらい。今の小学校って200人規模のところもあるから『1頭で1校分が賄える』って実感が一気に出るんですよね。
あと寿命の話もします。経済動物として小学生より短い。
そういう、牧場で起きていることを『自分ごと』に落とす話を選んで伝えたいと思ってます」
この問いかけで、子どもたちの日常と牧場が一気につながる。遠い存在だった“酪農”が、「自分ごと」になる瞬間だ。

見学にきた保育園の児童たちに牛の成長の話をする杏さん
同時に、TOKYO FARM VILLAGEの誕生によって、大人の来訪者も増えた。これまで牧場と無縁だった層が、食事をきっかけに牛舎を眺め、ミルクを味わう。
「生産の背景を理解して味わえるのは、実は大人のほう。その層とつながれたことは、とても大きいです。20代からシニアまで、客層は一気に広がりました」
好きではなかった牧場を、継ぐ理由
杏さんは幼い頃、牧場が好きではなかった。牛は怖く、仕事は大変そうで、決して楽な場所ではなかった。
「正直、(印象は)良くなかったです。牛が逃げたら「追え」って言われたり、大きいから怖いし(笑)。生き物を扱うのは大変だなって直感で思っていました。でも家が代々続いていて、私が15代目。姉は最初から出ていく宣言をしており、うちは女2人だけだったので、家は継ぐつもりでした。
ただ、「家を継ぐ」と牧場がついてくるじゃないですか。牧場を継ぎたいわけじゃない、でも生業がくっついてくる。そこはずっと葛藤でした。
大好きだった祖母の生き方を見ていたからだと思います。牧場を守り、家を支え、生涯を全うした祖母。家を継ぐと、生業が一緒についてきた。それが私にとっての牧場でした」

牧場で飼われている牛たち 床は、ココア、コーヒー殻などが使われている
「大学進学の時は「牧場は人に任せてもいい」って考えもありました。だから“お婿さんがいそうな大学に行こう”って(笑)。明治大学の農学部に行きました」
大学を卒業し就職も内定していた。八王子駅前に再開発で生まれた商業施設「セレオ八王子」でアルバイトをすることに。ここは父・正徳さんがミルクやヨーグルトを販売する店を出店。しかし人手がたりなかったのと、経営がうまくいっていなかった。
駅ビルの赤字店舗で「売ること」に向き合った8年
「駅ビルの店(セレオ)は、私が社会人として関わったのは最後の6年で、トータルで8年です。もともとアルバイトで入っていて、店の数字が見えるじゃないですか。
売上立ってないのが気になって仕方なくて。経営コンサルティングの会社に就職の予定だったけど、就職間際の3月に当時の店を支えてくれていたスタッフが退社してしまい。状況を見かねて、就職を1年遅らせて、私は“たたみに行く”つもりで入りました。
でも、お金かけずに変えられるところから変えたら意外と好転して、抜けられなくなって。沼にはまった感じ(笑)。
でも結局あの経験があったから、ソフトクリームも物販も、場所に合わせたニーズも学べて、この経験がなかったら、TOKYO FARM VILLAGEに進む勇気はなかったと思っています」

正徳さんと杏さん TOKYO FARM VILLAGEからの牧場の風景
父・正徳さんが始めた放牧型の牧場
牧場主である杏さんの父・磯沼正徳さんは、オーストリア研修で出会った放牧文化に衝撃を受けた一人だ。牛が自由に歩き、横になり、仲間と過ごす。その考え方を日本でも実現しようと、フリーバーン(自由牛舎)方式を採用し、牛たちはストレスの少ない環境で飼育されている。

野菜加工場から出るパイナップルの皮を食べる牛たち
牛飼育する小屋の敷料には、コーヒー工場やココア工場から出る殻を再利用。これにより糞の臭いを軽減でき、同時に発酵させれば上質の堆肥に生まれ変わる。
餌には野菜加工工場から出るキャベツ外葉やパイナップルの皮、クラフトビール工房のビール粕などが活用されている。食品ロス削減と飼料費軽減を同時に実現する、都市型循環酪農だ。牛の糞は発酵させて堆肥となり、近隣農家や体験農園へと戻っていく。ミルク、野菜、堆肥が地域内で循環する仕組みが、ここにはある。
「一次産業は父が管轄してきた。でも父に何かあった時に困るので、一次は夫が引き継ぎをしてくれています。夫はトラックも乗るし、搾乳から種付けから、一通りやります。前職は理学療法士です。全然違うところから来ているので、苦労はさせていると思います。家族は牧場にある実家に住んでいます。子どもは2人、年長と1歳(もうすぐ2歳)です」
食べることは、体験することが牧場で生まれる
「磯沼牧場」は都内では極めて珍しい「体験型牧場」であり、乳しぼりや餌やり、牧場見学を通して命と食を学ぶことができる「酪農教育ファーム」でもある。
ここには、ホルスタインだけでなく、
• ジャージー
• ブラウンスイス
• エアーシャー
• モンペリアルド
• ミルキングショートホーン
• ガンジー
という7種類もの乳牛が飼育されている。
これは国内でも極めて珍しい存在だ。

牧場の牛たち 牛の違いが絵になって掲示されている

人気の商品--飲むヨーグルト
牛の個性が、ミルクの個性になる牧場
磯沼牧場の特徴は、単に牛の種類が多いことではない。それぞれの牛の乳の違いを理解し、「牛ごとの個性を尊重する酪農」を続けてきた点にある。
とくに人気なのが、ジャージー牛のミルクを使ったヨーグルトだ。
乳脂肪分が高く、まるでフレッシュチーズを思わせる濃厚さで、30年以上にわたり牧場の象徴的商品となってきた。
かつて百貨店で販売されていた「かあさん牛のヨーグルト」には、実際にミルクを出した牛の名前が記されていた。
都市と農が共存できる未来を、静かに実証し続けている場所
10年後、この牧場をどんな場所にしたいか。杏さんの描く未来は、派手な拡張ではない。
「うまく言葉にできないけど、地域のシンボルになりたいです。八王子って言えば高尾山、ってみんな思うけど、牧場も市にとって彩り豊かな場所だと思う。都市の中に畜産・酪農が残っている、それ自体が付加価値でシンボリック。あえて都市部から「ここをめがけて」人が流入してくる場所にしたい。土地の価値を上げたいです」
そのために店舗ファームビレッジは、大きな意味をもっている。
「ここはエンジンです。今までは牧場が玄関だったけど、玄関が2つになって、むしろこっちが大きな窓口になっている。ここが発展しないと夢は実現しないと思っています。この地域には多くの農家さんが生業を代々継承して豊かな農地を守っています。恩恵と厳しさを両方抱える都市農業だからこそ、未来に向けて繋ぎたい。この農地・農家が残り続けるように、その筆頭として牧場が前線に立ち続けたいです」

売り場に立つ杏さん 牛と牧場の絵本や写真集なども並ぶ
杏さんの夢は、大きく広がる。
「私たちだけが元気でもだめで、周りの野菜農家さんも元気でいてくれて、そうするとうちで生まれた堆肥もきれいに循環していく。地域に生かされてきたぶん、恩返しできるタイミングなら、そうしたいなって思います。「この牧場を、八王子、そして東京の“シンボル”にしたい」
農地が残り、酪農が続き、そこに人が集う。TOKYO FARM VILLAGEは、そのための“エンジン”であり、“大きな玄関”だという。
「ここを目指して都市部から人が来る。その流れが周囲の農家さんにも広がり、地域全体が元気になる。それができたら、牧場は社会にちゃんと役割を果たせていると思います」
都市計画に農業が組み込まれ、防災や脱炭素、生物多様性が問われる時代。磯沼牧場の挑戦は、まさに“これからの都市と農”のモデルだ。牛を守ることは、風景を守ること。風景を守ることは、暮らしを守ること。磯沼杏さんの仕事は牧場を継ぐと同時に牧場の価値を未来へ翻訳することなのだ。

「TOKYO FARM VILLAGE」のテラスからの風景 前は放牧の場になっている
磯沼ミルクファーム
https://www.isonuma-milk.com/
TOKYO FARM VILLAGE
https://www.tokyofarmvillage.me/
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