WANフェミニズム入門塾の第4回目講座が4月17日(木)に開催されました。

「権力と労働」がテーマでした。

労働市場や現場におけるジェンダー格差は是正されず、さらに、それに対して声を上げると叩かれる・・・
しかしそんな理不尽な権力に屈せず抵抗を続けること。その経験を共有し、支え合う仲間がいること。
講座後もやりとりが続きました。

受講者3名が、講義や議論を通じて考えたことや感じたことをレポートにまとめました。

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① 入門塾「女性と労働」塾生とのトークから ◆ 西川 由紀

テーマは労働なのに、トークが教育へ傾いてしまう時があった。

女性は社会保障に関して学習する機会がなかったこと、うばわれてきたこと、自身の教え子から、「組合」が「悪い人たち」の集まりではないかと質問を受けたことが塾生の経験として語られた。夫の扶養内で働くことや、現状に満足を示す専業主婦たちに不安や焦りを覚えたという話もあった。労働市場、労働現場で女性は最初からペナルティを課せられている。ガラスの天井もいまだにある。男性はどうだろう。ガラスのエスカレーターも、ガラスの下駄もいまだにある。これらの言葉が生まれること自体が、女性と男性の立場の差があることを示している。1985年に制定された3つの法律「男女雇用機会均等法」「第3号被保険者制度」「労働者派遣法」は労働を語るうえで避けては通れない。ここに、女性が3分極化された起点があることを知った。

そんな労働状況を話していると教育に行きつくのは、「おかしい」という声を上げないことがおかしいと思うからだろう。おかしいと思えなければ、声も上がらない。道はそれしかない、そういうものだと思えば、その道がいつの間にか当然になる。だからこそ、おかしいことをおかしいと知るために教育が必要だという結論にいきつく。ここで、ジェンダー学におけるうえの先生の明言、

「ジェンダーだけでは何も解けないが、 ジェンダー抜きでも何も解けない」に倣って、教育に置き換えてみよう。

        教育だけでは、何も解けないが、
              教育抜きでも何も解けない

ジェンダーは分析変数なので、教育が分析変数でなければこの置き換えには無理がある。一方、イメージは伝わるのではないだろうか。労働状況に反対の声を上げるにはその背景を知ることが欠かせない。教育により知識を得ることができれば、自分の頭で考えることができる。複雑な思考回路を形成できる。さらに深く考える力につながる。教育は欠かせない。だから教育は大事、なのだ。

塾中にうえの先生がつぶやいた一言、は忘れてしまった。その時に受けたがーんという衝撃は今もある。うえの先生の一言から私はとっさに、言語学者 鈴木孝夫さんのある言葉を思い出した。要約しよう。1つ目。日本は、英語が大事といって、子どもたちに英語をさせている。国語の授業を奪って。考える力こそ、まず培うべきではないか、というもの。2つ目は、英語が大事なら、子どもたちに頼るのではなく、まずあなたたち大人が英語を頑張りなさい、というもの。

「若い人に教育が必要」。たしかにそうだ。40代の私は「若い人」に入っているのだろうか。入らないのだろうか。教育の対象は、可能性を託す対象は、希望がある人々は、若い世代だ、若い世代に託そう。それは、今の怒りに対して未來に希望を持つことなのかもしれない。

一方で、私たちがあの場に集っているのだから、私たちに何が必要なのか、私やあなたに何が必要なのか、それを話さなくちゃ、とも思う。そうでないと、貴重な時間が「未來に託そう」トークで終わってしまう。「こんな状況に怒った」「心配だ」「焦る」「いい加減にしてほしい」。その思いは不可欠なのだ。出発点だから。「分かる分かる」といったうなづきも必要だ。それは出発点であって、ゴールではない。原因であって、結果ではない。結果にしてはいけない。今、この場に集う私たちが、何ができるか、何をしたいのか、に焦点をおくのは、私たちが主体であることを証明する語りになる。そんな貴重な時間にしたい。若い世代に教育が必要だとするなら、あの場に集う私やあなたにも教育は必要なのだ。教育が必要でない人など、どこにもいないから。

『挑戦するフェミニズム』では、女性の労働に関する論述が掲載されている。ジェンダー研究、フェミニズム経済学、政治学、労働、福祉学、ケア労働、軍隊、災害、といった、それぞれの分野のスペシャリストが執筆を手がけた。歴史と現状を知ることができる。豊かな知識に出会うことができる。この書が訴えるのが、連帯だ。若い世代への教育が必要、とは一言も述べられていない。私は連帯を、つながること、と理解した。知識とつながる、歴史とつながる、人とつながる、を通して、微力は力になる。つながることのきっかけに入門塾がある。「怒りを感じる」「分かる分かる」を出発点にする会話をしたい。つながることを通して、私やあなたが主体であるために何をしたいのか、どうしたいのか、を話したい。

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② 塾後レポート 権力と労働 ◆ 葦家 ゆかり

今回は「権力と労働」というテーマのもと、女性を取り巻く労働環境の変化について学びました。女性はほぼ全員主婦となり、子育てと介護をしていた時代から、少しずつ働きに出始め、育休や介護休暇など働く女性の法律が整備されていきました。

私はまだまだ女性を取り巻く労働環境は良くないと思っていましたが、塾内の皆さんと話している中で、ただ法律を知らなかっただけという部分もあるということに気づかされました。働いている時、生理中や妊娠中にも普通に働かなければいけないことが非常にストレスだったのですが、生理休暇や妊産婦を守る法律が労働基準法内に定められていることを初めて知りました。

その時に感じた現在の社会の問題点ですが、私たちは日本で生まれ学校に通って就職していく中で、労働の際に自分を守ってくれる法律について学ぶことがほとんどないのではないでしょうか。そして経営者や管理職の人でさえもその法律を守るどころか、知りさえせずに、ただがむしゃらに会社に利益を上げるために労働者を働かせている会社も多いのではないでしょうか。長時間労働で健康を維持するのも厳しい職場も多くあり、女性には特有のPMSなどの体調不良もあります。そんな中で最初にはじき出されてしまうのは体力のない女性だと思います。女性を取り巻く労働環境は、昔に比べ良くなったと言えども、まだかなり厳しいと思います。

私は生理休暇もしっかり保障されるべきだと思いますし、妊娠中に関しても、つわりなどの体調不良があるので、女性は給料を100%保証された上で、働くか休むか好きな方を選べるようにしないと誰も出産などしたがらないと思います。

日本は女性の政治家と会社の役員の割合が欧米に比べかなり少なく、それゆえに女性の立場に立った労働環境の整備ができていないと感じました。女性が働きやすく、そして稼ぎやすくなることは、男性にとっても大黒柱などのプレッシャーから解放され、男女ともに良い方向へ行くのではないかと思います。そして子育ても母親任せでなく男女両方でしっかり参加できるような社会になるといいなと思っています。 日本はまだまだ変革の中にあるのだと思いますが、私たち一人一人がよく考え、声を上げ、行動していかなければいけないと思いました。

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③ 権力と労働 ◆ AK

今年は1985年の男女雇用機会均等法成立から40年。この法律ができる前は、例えば寿退社や若年退職制(男性60才、女性55才)など、女性を差別する制度を取り入れている会社は普通にあった。当時大学生だった私は均等法成立を知って、これからは一般企業でも男女が平等に扱われるようになる、と明るい未来を想像した(この法律がザル法であるとは知らずに)。

私は1987年に大学を卒業し繊維メーカーに就職した。同期の女性20人のうち本社へ採用されたのは自宅(実家)から通勤できる2人だけで、その2人以外は当時各地にあった製作所へ配属され、工場で働く女子工員の教育と寮生活のサポートという仕事に就いた。私が赴任したのは工場、事務所、診療所、学園、男女の各寮、社宅がすべて1つの敷地にある大きな製作所だった。

その製作所の女子工員(15才~20才代前半)は約300人。全員が遠く故郷を離れての寮生活を送っていた。300人のうち100人は中卒者であり、隔週で2交代制の勤務(6:00~1400、14:00~22:00)をしながら学園(当時は4年制通信制高校)で学び卒業を目指した。高卒者200人は日勤(8:00~16:00)後に市内の短大・専門学校の夜間部へ通い資格取得(保育士、調理師など)を目指した。どちらにせよ目標達成後は辞めていく者が殆どであった。門限などの規則や上下関係が厳しい中、働きながら学ぶ女ばかりの寮生活(1室2~6人)。早く辞めたいのは当然だと思った。ちなみに男子工員はというと中卒者の採用はなく、通学もなく、門限のない男子寮に住み、車の所有も認められた。

第4回「権力と労働」の講座で塾生が機械化導入後の農業におけるジェンダー分業について質問した際に、上野先生があらゆる職場で男性が有利な仕事に就いていったと、初期の頃の紡績業も職制は男性が独占した、というお話をされた。私がこの製作所にいたのは昭和の終わりから平成の始めにかけてであったが、実態は変わらないと思った。3~4年働けば技術も身に付き後輩を指導する立場にもなってくる。しかし、そのころには卒業=退職である。年齢は未だ20才前後。会社は女子を教育して(高校卒業や資格を取得させて)、(親元に)帰すという大義名分を振りかざしていたが、若さの搾取であった。

では、大卒女子はどうだったか。私の職場は男性1名(主任、30才)、女性5名(平均年齢24才)からなり、私たちは社内で先生と呼ばれた。大卒女子は入社1か月で管理職となったが、仕事は学園での教師の役目と女子寮の管理という寮母の役目があった。私たちも寮生活だった。勤務は女子工員の勤務時間に合わせて3交代制。学園行事・寮行事・会社行事と休日出勤も多かった。とにかく一日中誰かに見られているような、私生活が筒抜けの寮生活でストレスが溜まった。外から通勤したかったが、退寮=退職である。耐えるしかなかった。

「何年勤めるの?」「1年もつかなあ。途中でやめるヒトもいるからね」「〇〇さんの奥さんは先生だったヒト」は入社した頃によく聞かされた。「女性は結婚して家庭に入るのが一番の幸せ」は耳タコだった。工場現場では男子が女子のお尻を触るのが日常的にあり、私たちの主任でさえケツを触るはコミュニケーションと豪語した。

一日の大半を学園と女子寮で過ごす生活が2年になる頃、先輩の先生2人が辞め(転職)、主任が本社人事本部へ異動になった。新しい主任は私の1年後輩の男性だった。私の職場も女子工員たちの職場と何ら変わらなかった。学生の時、私が想像した明るい未来はダークな現実だった。私も辞めたい、と真剣に思い始めた。

今振り返ると数年で辞めるように、辞めたくなるように仕組まれた職場だった。当時は寿退社も含めてこんな仕組みがどこの会社にもあって女性を早く辞めさせていたのだと思う。 今回均等法のことを調べていたら、均等法成立以前、国連の女子差別撤廃条約に署名するかどうかの審議が日本国内で進まなかったときに、参議院議員の市川房枝さんの呼びかけで、当時ばらばらに活動していた40ほどの女性団体がまとまり、各団体の代表者が声明を出して総理府、外務省に陳情した、と知った。

女性たちはばらばらに見えていても女性という経験で繋がることが出来る。最初の均等法は無力だったが、その後数回改正されたのも戦った女性たちがいたからこそである。感謝しかない。女性を働きにくくしたり、辞めさせようとしたりする仕組みはこれからも作られてくるだろう。しかし、少しでも女性たちの未来が明るくなるよう、学んで知恵を絞って連携して問題を解決していきたい。

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