WANフェミニズム入門塾の第3回目講座が3月20日(木)に開催されました。
「性役割」がテーマでした。

今回の講座でも白熱した議論が繰り広げられました。

性役割は外圧なのか内圧なのか・・・?
押し付けられた性役割をいそいそと自発的に遂行してしまうのはなぜなのか・・・?

受講者3名が、講義や議論を通じて考えたことや感じたことをレポートにまとめました。

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① 性役割 ◆ スーニン

今回のテーマは性役割である。女性が自分や夫の家庭でケア役割を担うという議論をし、これはある程度、社会が女性に「やらなければならないが、アウトプットのない仕事」を押し付けていることの現れだと思う。女性を労働市場への参加を要求する同時に、管理職や専門職は男性が独占している。秘書やアシスタントという仕事は女性の方が向いているということにしたいのだ。これは、夫婦関係や家族関係における力の不平等にもつながっており、男女の役割分担の中で、金銭面でも権力面でも弱い立場に女性が割り振られ、結局は交渉材料を持たない立場に自然となり、女性がその役割を担うという悪循環が続いていると考えている。

また、男女ともに仕事を持つ時代とはいえ、家庭と仕事の両立を求められたり、その必要性を感じたりするのは女性だけである。例えば、私の国・台湾では、女性の大統領がいたにもかかわらず、結婚しておらず子どももいないという理由で、女性政治家だけが「政治家としてふさわしくない」と言われることがある。一方で、子どもがいる女性政治家は、「十分な時間とエネルギーを政治に注げないのではないか」と批判されることが多い。

現代社会では、なりたい自分になることが推奨され、女性は性役割から解放されているように見える。しかし、選択することのどれだけが、社会における性役割の期待に基づくもので、どれだけが本当に自由意志によるものなのだろうか?例えば、現在、大学に進学する男女の比率はほぼ同じだが、専業主婦/主夫になることを選択するのは女性の方がまだ多く、自分の意志とは別に、その選択の多くは性別役割に影響されているはずだと思われる。また、自分のために化粧をするのか、それとも社会が女性に与えた美の役割を果たすために化粧をするのか、といった例もある。私はよく、自分の行動が社会から与えられた性別役割にどれだけ影響されているのだろうかと考える。女性が本当に性役割から解放されるまで、考え続けるかもしれない。

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② 第3回性役割 ◆ 京都タワ子

「女性の居場所は家庭」の伝統的規範を打ち破って、政治や職業という「公的領域」に女性が進出することは、当然の権利であると同時に、社会的に必要であるとの認識が1970年代以後、85年に社会的に定着していった。男女雇用機会均等法を基礎に女性の雇用が促進されたほか、89年には「男女共同参画社会」を掲げ、99年には男女共同参画社会基本法が成立する中で、公的領域への女性の参入は、着実に進んでいった。しかし、このことによって直ちに男女格差の消滅や性役割の解消につながったわけではなかった。
なぜなら、既にある男女格差や性別役割分担は、企業内において性別職務分離として再生産されることとなったからである。
 
百貨店業界は、いち早く女性を活用し、戦力化したが、この業界においてもなお性別職務分離が行われていた。表向きは、大卒は幹部候補生として育成され、短大・高卒は販売職という位置づけであったが、それは取りも直さず学歴を隠れ蓑にした性別職務分離であったのである。当時、大卒は圧倒的に男性が多く、短大・高卒は女性が多かったが、その中でも数少ない大卒女性の境遇は複雑であった。彼女たちは大卒男性と同等の知識と技能の修得が要求される一方で、短大・高卒の女性と同様に、販売等の業務も習熟しなければならなかった。学歴差であるならば、大卒の男女は同じ仕事になるはずであるが、彼女たちの置かれた境遇は、「大卒」であると同時に「女性」であるからという理由で、販売もさせられる性差別の「グレーゾーン」に置かれていたのである。男性は管理職、女性は販売という職務の過度なジェンダー化は、職場の外部の価値観から持ち込まれたもの、つまりは私的領域における「男は外で稼いで(男は大黒柱)、女は家庭を守る(内助の功)」という価値観が、職場においては「男は主業務、女は補助業務」へと姿を変えて再生産されたといえる。その上、私的領域ならず公的領域でも男女の性別役割分担がなされたことで、ジェンダーによる日々の価値観の違いがより決定的なものとなっていた。

現在においては、公的領域と私的領域における「男は主、女は従」の関係性やそれに伴う性別役割分担は緩やかになっているように思われる。しかし、どれだけ平等を追求したとしても、「産む性」「産まない性」という生物学的な性別役割分担問題は残り、当然に「育児」もその影響を受けることになる。私の勤めている会社では、まだまだ根深い性別役割分担の意識が残っているように思う。例えば、子どもを産んでから、時短勤務、時差出勤申請をするのは女性が多い。一方で、男性から出生届が出されると、数日から数カ月の育休申請があったとしても、その後の勤務形態の変更する申請はほとんど見受けられない。このことから、男女で育休をとったとしても、育児は専ら女性が担っている実態であることが伺える。しかし、「育休」「育児」だけを切り出して議論しても、その背景には、夫婦のキャリアの中断、収入、会社での立場、自己実現等を含めて、どちらが働く方が合理的か、どちらのダメージが大きいかが話し合いの中でなされているのかもしれない。とはいえ、夫婦違えど、落ち着きどころは、どれも似たり寄ったりで、旧態依然の形になるのは必然なのかもしれない。

テキストでは、さらに踏み込んで、性役割を包括的な概念で捉え、行動・認知・アイデンティティの「性別役割分担」をもっとつぶさに見ていくべきだとして、心理学的な知見も提言している。
 
これらを踏まえて、私の中で残る疑問は、「産む」だけでなく、なぜ「育てる」こと、その他のケア労働が女性だけが負担することになったのかということである。この性別役割分担は生物学的上の違いからくる「父性」と「母性」の違いによるものではないのだろうか。例えば、動物はオスとメスの役割があって、多くの動物のメスは子供を守るという母性が備わっているのではないかと思う。同じ動物の中でも、人間には理性や知恵が備わったために、縄文時代以降、文化や社会が発展されるなかで、ジェンダー形成されていったのではなだろうか。出発点は人間も一動物として横一線で、父性や母性があるとしたら、そのルーツとして人間にも「母性」はあってしかるべきなのではないだろうか。ただ、動物と人間の違いは、猿人類から人間へと進化し、社会を発展させていく過程で、文化的・社会的にジェンダーが発展していき、「父性」や「母性」がその中に巻き取られ、一体化して、埋没していったのではないかと考える。したがって、私は父性や母性はあるに違いないと思っている。しかし、勉強会では上野先生にはっきりと「母性はない」と断言されてしまった。それは、社会的な役割期待の圧力から、身体化・内面化された価値観であり、それが個人の快・不快の感覚と結びつくことで、女性として相応しい言動は快、相応しくない言動は不快と認識するメカニズムまで作り上げてしまう、刷り込みなのであるという。だから、私が、「私には母性がある」と感じているのは、刷り込まれたからであるという。たしかに、私の中の男性・女性についての価値観が刷り込みであり、錯覚であるなら、もはや脱洗脳して解体してみないと分からない。だけど、「母性がない」と断言できる気持ちにもなれない。

さらに上野先生は、虐待をする親がいることに鑑みれば、全ての女性に「母性」といわれる「何かが」存在するとはいえないのでは?と指摘された。たしかに、その通りなのであるが、一方で疑問も浮かんでくる。虐待事例を以て、母性がないと断言できるものか、わからない。なぜなら、そのような親は極めて幼くしばしば男性の気を引くための虐待、性欲に溺れて育児放棄に及んでいるとみられ、別の問題が横たわっているように思うからである。彼女たちは「母性」がないから虐待できるのだろうか?心理的な知見を探るなりすれば、母性があってもなくても、虐待していたのではないだろうか?そのような疑問が残っている。 母性について第5回の講義で学ぶことになっているので、その時に「性別役割分担」と「母性」の関係についてクリアカットな答えが見つけられればと思う。

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③ 第三回塾後レポート ◆ 安齋美幸

今回のテーマは「性役割」
今回も、これまで生きて来た自身の生活、環境を振り返ることとなった。

キーワードは、「外圧、内圧」だったように思う。
ここでは、外圧は、社会、環境、教育、家庭など自分以外のもの、内圧は、刷り込まれたものを含む、自身の価値観、概念、考え方と定義する。

グループワークでは、職場の話になった。
二年ぐらい前まで、職場でのお茶汲みは女性がやっていたこと。今でも、来客があると男性が居ても女性が出るまで来客対応しないこと。電話も女性が対応という現状を知り、思わず「昭和か!」と突っ込みたくなった。

全体のワークでは、夫婦ではあるが、自身の意見が言えないなどの話にも及んだ。
自身の意見が言えないことについて、「意見を言うと、姑や他から言われるから言えない」という声もあった。
この場合、言われるのが嫌、面倒ということもあるのではないかと考える。

子どもの小学校で学年長や学校全体の四役(書記)をやっていた時、匿名電話、しかも文句の電話がよく掛かってきた。
名前は名乗らない。 でも、文句は言う。
意見ではない。 あれは文句だった。

思うに、「意見を言う女は可愛くない」「女は笑って聞いていれば良い」などの刷り込みが、昭和の頃は多かった。 それゆえ、女性は意見を言う機会がなく、意見を言うことに慣れていないのかもしれない。

学校教育においても、公平なようで公平ではない。
よって、同じ場に居て、同じ教育を受けているようで、女性は学校でも職場でも意見を言う環境にはなく、慣れていないため、言った後の引き受け(心の準備、武装、構え)もできていないのかもしれない。
その結果、意見が言えない、匿名電話なのだろうと考える。

高齢者の話に耳を傾けていると、高齢女性(80代)から「男性に意見を言う女性がいるけど、はい、はいって、笑顔で聞いていればいいのよ。男性には敵わないんだから、逆らうことなんかないのよ。面倒くさいんだから、威張らせておけばいいの」と言われることが、よくある。

この発言から、二つのメッセージが読み取れる。
男性が面倒だから、言わない。
男性には敵わないから、言わない。
敵わないという刷り込みから言わない選択をしているように見えて、実は言わない選択をさせられているのか、この選択には経済力の観点も含まれるように考える。

専業主婦で経済力がない女性が男性からDVを受けた場合、シェルターに入っても「自分は一人では生きられない」という洗脳から抜け出すのに、7、8回ぐらいは、DV男性のところに帰ると聞いたことがある。
はじめは、男性から叩く、蹴る、「お前なんか」と馬鹿にされるなどの暴力を受け、それが段々目に見えない心の縛りに変わり、自分を傷つける異性から離れられない、というように外圧が内圧に変わっていく。
それにより、自分が好きでそばにいるという選択をしているようで、本当は自分を傷つける異性のそばにいるという、選択をさせられているのではないか。

子どもについても、高齢者の話をうかがっていると、子どもに対して自分の手足のように動かないとストレスを感じる方が居る。中には、「使えない!」と言い出す高齢者も少なくはない。
この傾向は女性に多いように感じる。
そして、親子関係では母娘関係が多いようにも見受けられる。

女性は、自分で子どもを産むから子ども(特に娘)を所有物のように感じる傾向が強いのか、自身がしてきたこと、親から強いられてきたことを子ども(娘)に強いているのか、自分の思うように操りたい方が居ることも確かだ。
また出産をするのが女性であるが故からか、障がい児の母親が障がいを持った子を産んだことに対して、責任を感じる方もいる。

私の母も第三子を妊娠中、育ちが悪く、障がいを持って生まれてくるかもしれないと言われ、その子は生まれてすぐに亡くなった。そのことを長く引きずり、母は自身を責めていた。

また、子育ては母親のすることという概念からか、不登校や犯罪など子どもに何かあると、学校、ご近所などから母親が責められ、自身を責める母親がいることも少なくはない。
そのため、子どもが自身の思うように育たないと、子どもと心中する母親もいる。

姉妹兄弟においては、兄、もしくは弟の居る女性の話では、ずっと跡取りとして兄、弟は可愛がられてきたが、いざ介護となったら全部自分(娘)にまわってきたという話も珍しくない。習い事も進学も、弟は好きなことをさせてもらえたが、自分は女の子だからとさせてもらえず、家では弟が中心で自分は弟の犠牲になったと話す女性もいた。

「今からでも好きなことをやったら?」と言うが、やらない。 「今からやったところで」と年齢や立場の価値観、概念が自身への縛りとなり、動けない。
逆に、両親やパートナーが亡くなったことをきっかけに、大学に行く、好きなことをするなど、両親やパートナーの呪縛から解放されていく女性も居る。

日本のジェンダー指数は低い。
私自身もジェンダー講座(泣けない男の子、母と娘の心の距離など)を横浜、松戸などで開催をしたことがあるが、大抵、参加者は子育て中の女性だった。祖父母世代はほとんど来ない。

考えるに、どれだけ子育て世代の呪縛を解こうとしても、祖父母からの圧力(外圧)や刷り込み(内圧)によって、戻されてしまう。
そして、苦しさの連鎖が続く。

私の父は、私たちに介護を強いなかった。
お前たちの生活を壊したくないと、認知症でいつの間にか外に出て行ってしまう(徘徊)、オムツをしていた母の介護を2018年あたりから亡くなる昨年まで、ほぼ一人でしていた。
介護サービスにも繋いだが、父は自分で出来ることは自分でやりたいからと自身が末期の肺がんと診断されるまで、ヘルパーは断っていた。
父は、母がそうなる前までは、気が向くと掃除や料理をする程度の人だった。 よって、亡くなった祖母や私たちのオムツを替えたことはない。

が、それが毎日となり、電話が掛かるようになった。

「主婦は大変だな。外に出かける時間なんかない。おばあ(母)がデイサービスから帰ってくるまでに、やらないかんことがたくさんあって、寝る間も、自分の時間を楽しむ間もない。だから趣味の書道も全部辞めた。今夜は何を作ろうかと毎日、悩む。大変だなあ」と。

要は、愚痴だった。 ママ友ならぬ、介友がいない父は私にこぼしてきたのだ。

妹に愚痴を言うと「なに言ってるの!私たち女性は、ずっとやって来たの!お父さんはこれまでやってこなかったでしょ!」と叱られたそうだ。
嫁姑、母娘の会話のようだと思いながら、父の話を聴いていたが、外圧、内圧、選んでいるようで、選ばされているという現象は、ここでも感じる。

「性」が変わっただけで、苦しむ人が居ることは変わらない。

父は、夫である自分が母を看なくてはと、頑張りすぎた。
母を手放さないし、手放せない。
挙句、母のことを構い過ぎ、母から手を噛まれたこともあった。
余計なことを言い、「あんたなんか、ボケたら老人ホームにぶち込んでやる!」と言われ、泣きそうな声で電話をしてきたこともあった。

父は、「ねばならぬ」の内圧が強かった。
「介護のプロに任せたらいいのに」と私たちが言っても、ヘルパーさんを入れたがらなかった。
私が帰ろうかと言っても、「そちらでの生活を大事にしなさい」と言い、帰って来るなと拒否をしていた。

そこには、娘たちの生活を守らねばならぬ、妻を守らねばならぬという思いを感じた。
自分は父親で、夫だからという内圧があったように考える。
常に、「夫婦は二人で一つ。ワシが、おばあにやってやらねば」と言っていた。
が、8歳下の母は、その息苦しさ、窮屈さからか「冗談は止しこさん。そんなわけないでしょう」と言っていた。そして、デイサービスやショートステイが始まるまで、母はよく家から出て行った。(要は徘徊)

今から思うと、父にとっては当たり前のことで、母への愛情を示したつもりだったが、母にとっては、「愛情」と言う名の手錠、足枷、牢獄だったのかもしれない。
そんな内圧に加えて、父が愚痴をこぼせば「なに、言ってるの ! 私たち女性は、みんなやって来たんだから、それぐらいやりなさいよ。弱音を吐くんじゃないよ!」という、妹からの外圧により、父はどんどん専業主夫に染まり、精神的にも追い込まれていった。

「他人の靴を履く」 そんな言葉がある。父のようにやってみて、気づくこともある。
今や専業主婦をしている女性が減った。 働く女性が多く、家事に、子育てに、仕事にと、女性の負担は昭和の頃より、さらに増えた。
養成学校のような男性専用の家事・介護訓練校、もしくは連続講座があったら、主婦の大変さ、介護の大変さを事前に感じ、少しは変わるのだろうか。

出産についても、確かに男性が子どもを産むことはない。
いや、斎藤工主演でそんな映画をネットフリックスで観たことがあるから、実は可能なのかもしれない。が、男性の妊娠に取り組む研究は、現在の医学研究現場ではしていないようだ。

ある時、人間の女性、男性ではなく、サルに産ませられないかと思い、霊長類研究所にメールを送ったことがある。
「経済」という観点からしても、女性の妊娠出産時期、女性個人もだが、会社としても代理の人を雇う、配置換えなど、社内の誰かがその分を補わなくてはならないことが起きる。その度に経費も掛かってくる。
代理出産もあるが、同じ人間では妊娠中に情がわき、トラブルになる話も耳にする。
よって、妊娠出産の時期に、動物に代わってもらえたらと考えた。 しかも人間の進化の先祖でもあるサルならば可能性は大きいのではないだろうかと思い、サルに出産してもらうことを考えた。

霊長類研究所からの返信は、可能かもしれないが、倫理的に許されないとのことだった。

それならばと考えたのが、人工子宮だ。
今は、人工○○と人工のモノをつくることが可能な時代だ。人工子宮をつくり、羊水に似た栄養水を入れ、受精卵をそこで育て、成長したら帝王切開のように取り出せば、母親が子どもを所有物のように扱うことも、産んだ責任を感じることもなくなるのではないか。

子育てについては、スマホが普及して以降、電車に乗っている子どもを観ると、車内ではスマホが子守りをしている。そんな姿を観ていると、AIが子育てをしてくれる時代も遠くないように感じる。
そのうち「性役割」ならぬ、「AI役割」もできるかもしれない。

人間が、出産も子育てもしない時代。
そんな時代が来た時、それでも女性、男性などと「性役割」を意識するのだろうか。
それとも、「個」の役割を意識することが強くなるのだろうか。

そんなことを感じながら、今回の「性役割」のワークを振り返った。

以上

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