WANフェミニズム入門塾の第6回目講座が6月19日(木)に開催されました。
今回は3名の参加者が講義や議論を通じて考えたことや感じたことをレポートにまとめました。

この入門塾では、ふだんなかなか話せないテーマを取り扱っています。
今回は「セクシュアリティ」がテーマです。
セクシュアリティでは性暴力にもふれており、今回のレポートには、性的虐待の描写を含むものもあります(3番目のレポート)
日常ではふれづらいテーマだからこそ、この入門塾で垣根を乗り越えて議論していきたいと考えています。
もし読むことで負担がかかりそうでしたら無理せず、飛ばす、休憩する、あとで読む、などご判断ください。

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① 『私たちはセクシュアリティを超えて、自分のことを語れるのか?』 ◆やぎち

私が”セクシュアリティ”という言葉を初めて聞いたのは、約4年前だと思う。性的マイノリティーに苦しむ人々を支援する活動のセミナーに出席した時だ。セミナーでは自分の性や性的嗜好について当事者が自分の経験を話していた。それから、私は”セクシュアリティ”という言葉に興味を持ち、「多様性を尊重するために少数派を尊重する必要がある」と考え、”セクシュアリティ”についてYouTubeや本から知ろうとしていた。

しかし、フェミニズム入門塾を通してこのような考えがあまりも傲慢であったと同時に、自分自身も「あなたは何者ですか?」と突きつけられている一人なのだと気づかされた。わたしは、男とか女とかを無しにしたとき、その問いにどのように答えることができるのだろうか?

私は、”セクシュアリティ”を他者・社会と自分とが繋がる時の行為や考え方を表していると考える。私達は、誰かと深く結びつくことに幸せや快楽を感じ、時には癒えることのないくらいに傷つくこともある。私は、男女の愛をはじめとするセクシュアリティのあらゆることを疑う余地のないくらいに、それが「自然」と考え、その中に入れないことを”マイノリティー”としてきた。しかし、私が信じていた”セクシュアリティ”は実は誰かにつくられてきたものだったと受け止めることで、マイノリティーとは誰のことなのか?目の前にいる大切な人を大切にするとはどういうことなのか?と、自分と他者について考えはじめている。

また、つくられてきたセクシュアリティの中で、”性の黙秘”がある。私達は、性について語ることがいけないと考える。そして、その社会的風習は多くの性暴力による叫びを地中に沈めて来た。しかし、今回の事前レポートでは、ある発表者の経験が共有された。発表者の言葉は、わたしの経験を他者に語らせた。さらに、発表者の考察は、学ぶことを通して過去を超えることができるのだと私を励ました。フェミニズムは女性が自分の経験を語ることで、社会に抑圧されている人々の経験に言葉を与え、語らせ、少しずつ社会に変革をもたらしてきた。私は、”セクシュアリティ”について考えはじめたばかりだ。他者の経験を聞くことで、たとえ誰かにつくられたセクシュアリティの中であっても、今までよりもっと自由に自分と他者、社会について考え、語り、関係を築くことができるだろう。

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② セクシュアリティについて ◆安齋美幸

このレポートを書くにあたり、まずセクシュアリティってなに?と思った。
そんな程度の知識だった。
だから、WANのYouTubeをおさらいしたり、他のYouTubeを聞いたりした。

では、自身のセクシュアリティは?と考えるとわからない。

調べてみると、セクシュアリティとは、「性の在り方」を示す言葉(Flag HPより)
と、書かれていた。
ますます、わからない。
一文などで、言い表すことはできない。

よって、もやる「セクシュアリティ」を軸に、これまでの自身を振り返る。

私は、父と母の第一子だった。
  父は、男の子が欲しかった。母も、男の子が欲しかった。
だからか、私はいつも刈り上げで、ショートパンツ、色もブルーや黄色のTシャツなどで、ジーンズやキュロットスカートが多かった。
「子どもは動きやすい服装で、活発に」というのが、親の方針だった。
そして、「外見よりも本を読んだり、心を磨くように」というのが当時、働いていた母の言葉だった。
知らない人からは、男の子だと思われることもあった。

両親は、なぜか嬉しそうだった。
 
小さい頃、近所の男の子と遊ぶことが多かった。
観ていたテレビは、ウルトラマンやミラーマン、仮面ライダーだった。
リボンの騎士、ジャングル大帝レオ、アッコちゃん、サリーちゃんも観たが、ウルトラマンの胸のランプがピコンピコンとなると、今日こそ倒れるかもと興奮した。
同い年の男の子と、本気でウルトラマンのように飛べると信じて、高いところから飛び過ぎて脱腸になり、父にかなり叱られ、親戚の医者に笑われた。

そんな子だったからか、父の兄である伯父が、私にくれたおもちゃは、新幹線と足漕ぎのスポーツカーだった。
男の子たちは、私のおもちゃをとても欲しがった。
そんな中で育っていたため、自分で「女」を意識したことはなかった。
女というより、「性」を意識したことすらなかった。

ただ、どれだけ叱られてもへこたれない私に「お前が男だったらなぁ」と父が言うたびに、残念な気持ちになった。

小学生になっても、分団旗を振り回して男の子とおっかけっこをしていたため、スカートは学習発表会やピアノの発表会ぐらいしか着なかったと思う。

小学校卒業時、カードに書かれたクラスメイトからの言葉は、「女らしく」が多かった。
最近、それを読み、腹が立ち、全部捨てた。
なぜなら、「女らしく」して、得をしたと思ったことはなかったから。

中学はセーラー服だったが、バスケ部で朝練があったため、大抵は運動着にスカートをはいて、授業を受けていた。「お寺の小坊主か」と、先生に揶揄されても止めなかった。
セーラー服は、まともに着ていなかった。
それを先生に注意され、仕方なく、中一の冬の衣替えでセーラー服を着て教室に入ったら、男の子が赤面をして、「セ、セーラー服で来てる」と驚かれた。

だから、中学に入っても「女」を意識したことはない。
小学生の頃と変わらず、バスケをしたり、男の子のような振る舞いが多かった。
そんな私も、中学一年生の秋に生理がきた。

両親には言えなかった。
なってはいけないものになってしまったようで、それでいて、「女」を着せられるのが嫌で、気恥ずかしさもあり、複雑な気持ちで言えなかった。

赤飯を炊くなんて、そんなこっ恥ずかしいこと、絶対にして欲しくなかった。

当時、うちのトイレは、まだ汲み取り式のぽっとん便所だった。
母は、トイレが赤くなっていて、自分が「痔」になったと思ったらしい。
半年経った時に、私が生理なのだと気づいた母が「ちょっと、あんた、生理になったならなったって言ってよ。痔になったと思って鏡でお尻を見たがね」と言われた。

生理痛は酷く、月に一度の生理の時だけは、「女」であることを自覚した。

高校に入ると、聖子ちゃんや明菜ちゃんの真似をするようになった。
みんなと歌真似や振り真似をするのが、楽しかったから。
また、ピンク色や縁遠かったフリフリの洋服も着てみたかった。
要は、世間でいう「女の子」になってみたかった。

小学生の頃に好きになった男の子はいたが、高校では、体の大きな、ちょっと影のある雰囲気の子を好きになった。ジュリーにも似ていた。
その子に好かれたくて、所謂、ぶりっ子をやっていた。
が、続かない。
壊れていく自分を感じた。

大学は、女子大で、ぶりっ子という服を脱ぐかのように、元に戻った。

「かっこいい」か「かっこ悪いか」という物差しはあっても「かわいい」か「かわいくないか」という物差しは、あまり使わなかった。
また、「きれい」か「醜いか」という物差しも使うことはなかった。
だから化粧も、あまりしなかった。

振り返るほどにわかるのは、自分にフィットする洋服を探すように、自分の心に合う生き方、「性の在り方」をこれまで試してきたように感じる。

最後に、「結婚とは、死にまで至る恋愛の完成である」という言葉に吹いた。

おそらく、前夫との遠距離恋愛をしていた大学生の頃だったら、「うん、私も頑張ろう」と、大きく頷いたと思う。
三人の子を産み、離婚、再婚を経験した今の私は、この言葉に頷くだけの甘いものを持っていない。

 「性は、文化と社会の産物」
その言葉どおり、私自身も時代によって変わってきた。
流行っていた遠距離恋愛、韓国籍の子との恋愛、別れ、年下の子との恋愛、いろいろな経験を通して、自身の性の表現等も変わった。

セクシュアリティは、変わる。
その通りだと思う。

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③ 【WANフェミニズム入門塾セクシュアリティ】受講レポート ◆野菜スープさん

WANフェミニズム入門塾2期生の方の受講レポートにも勇気をいただき、書きます。

■はじめに
今回、10分間レポート(発表)で、私の受けた性的虐待の被害について、思っていることや被害による今の私の状態、性的虐待の構造について、学び考える機会を与えていただき本当に感謝しております。
皆さんが私のことを自分のことのように考えてくださり、心があたたかくなりました。

■私のこと
私は3歳から小学5年生のまで実父から性的虐待を受けていました。
日常的に体をさわられたり、胸をさわられたり、父のマスターベーションの手伝いをさせられ(つまり、父の性器を触るよう強制され)、「このことは、絶対にひみつだよ」「上手だね」などといわれました。私は、茶碗洗いなどのお手伝いと同じような感覚で一生懸命、お手伝いをしていました。
それから、夜寝ている時に父が私の性器になにか入れ、次の日に生理が始まったのが小学3年生のときです。私が生理になったことを知った時の父のぎょっとした顔をいまも覚えています。
お酒で酔っ払って胸を触られたときは、胸が膨らみ始めた第二次性徴期だったので、私は、自分の体の変化が苦痛で、胸をはさみで何度も切ろうと試み、タオルを巻いて膨らみをなくす努力もしていました。
また、父の日常的な入浴の「のぞき」に対応するために入浴時間の短縮と早く着替える技を習得しました。

父からグルーミングがあったこと、そして小学5年生で父と母が父の不倫により離婚したときに母がうつ病になったこともあり、私は母に虐待のことを言おうとすら思いませんでした。
父親は国語の教師で、見かけ上は「いい人、いい教師」でした。
私は加害者研究をする中で、父が性的虐待をした要因の一つに文学の存在があったと考えています。つまり、父を崇め、無償に愛し、思うままにできる娘という存在を描いた作品に影響されたという可能性です。父は私に「お父様」と呼ばせたいという願望を母に伝えていたようです。

■性的虐待が今の私に与えている影響
私の場合は、男女の恋愛に全く興味がありません。映画を見ていても、男女のスキンシップ、キスやセックスのシーンは観ていて苦痛なので早送りします。女性に性的指向のある男性に対して100パーセント信頼するということは、いまのところ難しいと思っています。一方で、私は、BL(ボーイズラブ)のドラマや映画は楽しんで観ることができます。自分のことを研究する中で、自分とは関係のないところで行われる恋愛なら私は観ることができるのかなと考えています。

■講座での意見交換、話し合いを終えて
私は父が性的虐待をした要因の一つに「自分に歯向かえない構造的に弱いものをいじめて楽しむ心」という考えを発表しました。すると、それを上野さんが「支配欲」と表現してくださり、発表が終わった日常生活の中でも「支配欲」というものは何なのかを考えております。
いじめも支配欲で、性的虐待も支配欲なのだろうか…。
私は自分の日常の行動で支配欲を感じる場面があるだろうか…。
今回、自分のことを皆さんに伝えることで、いろんな角度からの意見や考え、思いを聴き、仲間の言葉から自分を表現する言葉をみつける…。そんな体験をしました。

「性的虐待はどんな家庭にも起こりうる」と私が表現したことによる懐疑的な意見もあったけれど、「うちでは絶対に起こらない」と考えるより、「起こるかもしれない」と考える方が子どもたちを守れるのではないかとも考えました。

■今後
「男性中心の社会の中で、どんなことを学習したら、娘に性的虐待をするような男が育つのか?」
男というだけで権力が与えられ、性欲は抑えられないとすりこまれ、マジョリティとして生きる…。
この問いを今後はフェミニズム入門塾で学びながら、考えを深めていきたいです。

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