ミニスカートにハイヒールの若い女が敢然と足を蹴り出している。パンツ丸見えだが全く気にかける様子はない。WAN創設10執念記念シンポジウム「闘うフェミニズム再びー怒りを力に社会を変える」のポスターの図像である。
 性差別と闘ってきたフェミニストたちの中には、なぜこの怒れる女性身体がミニスカ、ハイヒール、スカートの中を覗き込もうとする下から見あげる眼差し、という「男」目線の典型によって描かれているのか疑問に思う向きもあるだろう。こうした女性像こそ、フェミニズムが批判し拒否してきた女性表象だからである。なぜ女性が怒りを表明するのに、このような格好をしなくてはならないのか?

この女性身体の表象には、私たちの感情を強く揺さぶるものが確かにある。共感や魅力を感じる人もいれば、違和感、反発を感じる人もいる。その共感や違和感も、おそらく一様ではない。




 一方、私たちの社会における女性身体へのまなざしはそれほど多様でもない。大きく分ければ性的欲望の対象としての表象と「性的」でないものの二種類である。そして欲望の主体は基本的に「男性」である。女性身体は「男」目線の性的欲望の対象として表象される。広告、アニメ、グラビアなど、あらゆるメディアは子ども向けの媒体をも含んで性的欲望を煽る女性表象に満ち溢れている。女性自身も、自らの身体に向けられる性的欲望のまなざしから自由でいることはできない。『セクシィ・ギャルの大研究』(上野1982)を参照するまでもなく、ハイヒールとミニスカートの若い女を下から見上げる女性像はこうした表象の典型である。

 しかしこのポスターの女性身体は「男」目線の性的まなざしの期待に応える表象ではない。一片の「恥じらい」もない丸見えのパンツは「エロい」どころか、下から見上げる「男」目線の「覗き」の欲望を思い切り萎えさせ無化する。これは「男たちが見たがる女性身体」ではない。ひるむことなく繰り出される蹴りは、自らの身体を勝手に定義し暴力的に消費する「男」の性的欲望に対する強い抗議と反撃に他ならない。

 「慎しみ」と呼ばれる女性の規範を重視する向きにとって、この女性身体はあまりにも「はしたない」。他者の眼差しによって性的に定義され消費されることに敢然と抗議する「蹴り」が殊更に「暴力的」に見えるなら、それが男ではなく「女装」した女の行為だからである。女らしさの規範とは女性が自らの意志や尊厳を脅かすものに対して限りなく「武装解除」し身体を空け渡していくことである。女性が自らの身体や欲望の主体であることを認めない性の規範は、「男」の欲望の共犯者である。

 一方「性的」ではない女性表象もまた、性的消費の対象である。性的要素の対極にあるかのような「清純な」処女、人妻、看護師、女教師は、むしろ娼婦以上に扇情的な表象である。修道女や尼僧のように「女を降りた」女性でさえ、むしろ性的欲望を煽る装置として「男」目線の欲望に消費される。露出の多い格好をしていれば性被害に遭っても当然だといわれるが、「慎ましく」「おとなしそうな」女性は一層卑劣な性犯罪のターゲットになりうる。そして抵抗が不十分であると見なされれば、「合意があった」と「誤解」されても仕方がないと言われるのだ。ミニスカ、ハイヒール、化粧のような「女装」をしなければ暴力的な性的欲望の眼差しを免れるわけではない。

 女は「男」の期待に応えるために「女装」するのではなく、自らの好むように「女装」したり、しなかったりするのだ。「女装」した女が自らの身体に向けられた、下から見上げる「男」目線に敢然と蹴りを入れる姿は、女性の主体性を暴力的に蹂躙する性的眼差しに対する「誤解」されようのない明白な抗議の意志表示である。女らしさの規範によって抵抗力を奪われ無防備にされた女たちはなかなか怒りを表明できなかった。しかしあからさまな差別と不公平があらわになった今日、女たちはもはや黙らない。私たちはもっと怒っていいのだ。(伊田久美子)

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