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素晴らしき人外の世界  野田潤

2011.03.04 Fri

前回のエッセイの「邪魅」とは、目に見えない悪意に形が与えられた、人外の妖怪のことだった。
だが、この世に悪意があるのなら、その逆もまた然り。
という訳で今回は、悪意ではないものに形が与えられた、そんな人外の物語を考えてみた。

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 真っ先に思いつくのが、斎藤隆介さんの『花さき山』。
人間が「やさしいこと」をひとつするたびに、綺麗な花がひとつ咲く――そんな不思議な山の物語。この花を咲かせるのは、自身の苦しみをかえりみることなく、何の対価も得ることなく、それでも誰かのために行う、そんなタイプのやさしさである。
報われない。誰に知られることもない。けれども花さき山の奥深くでは、美しい花が密やかに咲く。そして永遠に枯れることはない。
無数の痛みとともに生まれた無数の花は、人が人のためにどれほど強く優しいことをしてきたかという、なにかとても美しいものの存在の証だ。
あらゆる年齢層の人が読める絵本だと思う。滝平二郎さんの切絵がまた実に美しい。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. あまんきみこさんの『新装版 車のいろは空のいろ――白いぼうし』も素敵な本だ。
主人公の松井さんが運転する空色のタクシーには、さまざまなお客が乗り込んでくる。それがまた熊だの狐だの山猫だの、やたらと人外ばかりなのだ。
彼/彼女らがホノボノと繰り広げる物語は、決して能天気に幸せなだけの話ではない。痛みや悲しみもあちこちに散りばめられている。けれどもそこには常に、誰かが誰かを思いやる、やさしい心が満ちている。深くなごやかに心温まるお話。

なお、この短編集、最後の「本日は雪天なり」まで読むと、実は本当は松井さんも人間じゃないのでは……という拭い去りがたい疑念が個人的には生じてしまうのだが、何だかそれさえもちょっと素敵なことみたいに思えるのは、この物語の人外どもがみんなとてもやさしくて、少しオトボケで、誰かを思う気持ちでいっぱいだからかもしれない。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. ちなみに、上記の物語を組曲にしてしまったシンガー・ソング・ライターの人がいる。しかもデビューアルバムで。
谷山浩子さんの『ねこの森には帰れない』は、全11曲のうち5曲が『車のいろは空のいろ』をモチーフにしている。(「すずかけ通り三丁目」「おさかなは、あみの中」「山猫おことわり」「くま紳士の身の上話」「本日は雪天なり」)
登場人物全員に注がれるやさしいまなざしに加えて、メロディやアレンジや曲構成に至るまで、原作の雰囲気が本当に大切に素敵に表現されていると思う。少し切なくて、やさしくて、ほのぼのとして、温かい。

ところで、世の中には「善意」でも「悪意」でもない、ただ単純に「人外である」というモチーフも存在している。役に立つでも立たぬでもない、謎の妖怪・豆腐小僧のように。
個人的にはそちらも、大好物だ。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. そのような人外の世界そのものを絶品の文章で楽しみたいときは、泉鏡花さんの『夜叉ヶ池』がお奨めである。強大な力を持った池の主・白雪姫もいいのだけれど、その家来として有象無象のモブ役で出てくる妖怪どもがまた、たまらないのだ。
真っ赤な山伏の扮装をして「ずかりずかり」と横這いをする蟹五郎や、黒白鱗の帷子で「ばくばく」と口をあける鯉七。挙句の果てにはそのへんに落ちていた「笠」が、突然声をあげて叫び出す始末。
大した妖力もないけれど妙に憎めないこの種の奴らが、実にいい味を出している。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. 波津彬子さんの『雨柳堂夢咄』にも、『夜叉ヶ池』と似た雰囲気があると思う。
目やら口やら手足やら生やして相談する骨董品たちに、人に化ける動物や無機物。というか、登場人物の過半数は人間じゃないような気もする。
これらの妖怪たちの多くも、別に世界を滅ぼすような強烈な力があるわけでもなく、とりわけ凶悪でも善良でもない。無害だが、無益。何ということもない有象無象なのだが、そんな古物どもが額を寄せて真剣に相談している様子などはもう、実にほほえましくって、可愛らしいのだ。さらに波津さんの雰囲気のある繊細な絵柄が、そのほほえましさ・可愛らしさを余計に増幅させている。

しかし。

このほほえましさについて突きつめてみると、それって実は人間じゃないのかな、という気もするのである。
無益で無害でどうってことなくて、何の役にも立たなくて、でもいとおしい。
それって人間のいとおしさと、実は限りなく近い種類のものなんじゃないかな、と。

そう、良く考えてみたら、人外のモノが現わす「やさしさ」という概念だって、『花さき山』が象徴的に示すように、実は人間の中から出てきたもののはずなのだ。(そもそも上記のお話全部、作者はみんな人間なんだし。)
だからもしかしたらこれらの作品は、むしろやさしさや思いやりのような「人の持つ良い部分」を、敢えて人外の登場人物(花や動物)に託すことで、逆にそれをものすごく鮮明に、見えやすくさせたものなのかもしれない。
普段は人界の雑念にまみれて発見しにくい、目には見えない「いいもの」たちが、逆に人間じゃないモノの形を経由することによって、はっきりと目に見えるようになる――私たちが楽しんでいるのはそんな瞬間なのかもしれない。

日々に疲れて人間のほほえましい部分が見えなくなったとき、逆にそれを、人外のモノの形を借りて楽しむことで、再び発見しなおせるようになることだって、ひょっとしたら、あってもいいだろう。

次回「「居場所」から「広場」へ」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから








カテゴリー:リレー・エッセイ