
今月は、邦人の幸田延(こうだ のぶ)をお送りします。1870年東京に生まれ、1946年に同地で没しました。幸田家は、母が絶えず立ち働き家を整えるしっかり者でした。親の言うことは絶対の時代、子供たちをたいそう厳しく育てました。祖父同様、婿養子に入った父は幕臣、江戸城で「表坊主」として仕えました。江戸に上る大名の世話や礼法やしきたりを教えていたと言います。謡曲や長唄などを好む風情のある人物だったそうです。
両親は24年間に8人の子をなし、延は2人娘の長女、兄には作家として名を馳せた幸田露伴(1867-1947)、海軍大尉の郡司成忠(1860-1924)、8つ下の妹・安藤幸子(1878-1963)も後年ヴァイオリニストとして活躍します。
江戸幕府終焉後、両親は教育こそが未来への確かな礎と考え、官費で受けられる可能な限りの教育を子どもたちに与え、各兄弟が功なり名を遂げました。幸田家は、たとえお稽古事でも真剣に取り組むがモットー。延は母から三味線や謡曲を厳しく仕込まれました。学校は東京女子師範、現在の御茶ノ水大学付属校に通います。その後、杵屋の三味線、山田流のお琴、日本舞踊も学びました。
江戸時代の200年余りにわたる鎖国政策から欧米に大きな遅れを感じた日本政府は、広い分野に欧米の教育を取り入れようと、1871年、欧米各国に総勢100名の岩倉使節団を送ります。5人の女性留学生の中には後年津田塾大学を創設する津田梅子もいました。国内には「雇われ外国人」として、様々な分野に外国人が招聘されました。音楽教育にはボストン出身のメイソン(Luther Whiting Mason 1818-1896)もいました。

初期の音楽取調掛の建物

前列左から2人目がメイソン
音楽取調掛(現在の東京芸大に繋がる機関)に赴任したメイソンは、女子師範付属校でも唱歌の授業を受け持っており、かねてより邦楽に親しんでいた延は、唱歌も苦労なく歌い、たちまちメイソンのお気に入りとなります。個人的に音楽取調掛へ出入りも許され、母に手を引かれピアノのレッスンに通いました。
メイソン離日の折には、母親が呼ばれ、これからも延の才能を伸ばすようにと助言があり、両親はその言葉に従いました。延は1882年、12歳で音楽取調掛の伝授生となり、ピアノやヴァイオリンを学びます。1885年には全科を修了し、引き続き助手をしながら研究科に進みます。修了時は、ウェーバーのピアノ曲「舞踏への誘い」や室内楽でピアノ三重奏曲を演奏しました。
メイソン後の音楽取調掛は、正式に音楽専門教育機関として発足し、ウィーンからディトリッヒ(Rudolf Dittrich、1861-1919)が着任します。ポーランド生まれのオーストリア人、作曲家ブルックナーの弟子でもあり、オルガン専門ながらピアノやヴァイオリンにも精通していたので延は熱心に学びました。

1889年には第1回文部省音楽留学生としてボストンのニューイングランド音楽院へ1年間、引き続きウィーンに5年留学しました。ブラームス、シュトラウス、ブルックナーが健在だった19世紀末のウィーンで、ヴァイオリンを主専攻としました。学業はオール優を取り、対位法や作曲もこの時代に学びます。篤志家の書店夫人よりイタリアの名器アマティ等計3丁のヴァイオリンを譲り受け、延は生涯の楽器としました。
1896年、帰国後の凱旋公演ではメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾き、ブラームスの歌曲も披露します。国を挙げての期待と注目に大きく応え、評判はさらなる評判を呼び、留学帰りの女性音楽家第一人者は、その地位を着実なものとしました。
ほどなく母校の助教授のポストを受け、その後教授になります。外国人教授たちに委ねざるを得なかった西洋音楽の教育が、海外で教育を身につけた優秀な日本人により叶えられる時代が来ました。
延の日本クラシック音楽界への功績は計り知れませんでした。多くの生徒を輩出し、中には後年ウィーンに留学したピアニストの久野久、オペラ界のマドンナとなった三浦環、滝廉太郎や山田耕筰も延の薫陶を受けました。
1906年の大衆紙「日本」には、日本女性の高額所得者2位に延をあげており、年俸1800円+個人レッスン等の収入500円、計2300円とあります。当時の1円は現在の2万円と言われていますので、いかに高収入の女性だったかがわかります。
3歳上の兄・露伴が作家になる前、赴任先の余市からとん走し自宅で不遇を囲っていた際は、延が密かにこづかいを渡していました。仮にも兄である露伴は驚き固辞しましたが、しっかり者の上に優しく太っ腹な延を評し、妹には叶わないと語っていたエピソードも残されています。

明治37(1904)年の東京音楽学校卒業生。前列右端が三浦(旧姓柴田)環。中央とその右が教師の幸田延と安藤(旧姓幸田)幸。

幸田姉妹
しかしながら、ほどなく延の周辺は不穏な空気が漂い始めます。実力とともに好意的に捉えられていた延の存在に、反対勢力が現れたのです。1908(明治41)年の頃でした。延とともに活躍していた女性教師グループに対抗する男性教師たちの反目が続き、当時のメディアは男性教師を援護する動きに出ました。「やまと新聞」は匿名記事で延をやり玉に挙げ、引き続き「東京朝日新聞」も5回にわたり「憂うべき音楽界」と題した記事を仕立てました。凄まじい批判は瞬く間に世間を巡ったのです。この背景には取調掛の男性新校長が、かねてより女性教師の台頭を気に入らず、マスコミを使って操作・誘導したとの説もあります。当該新聞記事は萩谷由喜子氏の著書に詳しいです(出典参照)。
1909年、延は取調掛に依願退職届を出し、他の女性教師を一切巻き込まず、ひとり14年にわたる教師生活に終止符を打ちました。延は黙して語らずを貫きました。才能ある女性音楽家を国費で勉強させ、期待以上の成果を手土産に後進の育成に従事すれば、一挙に潰しにかかる時代が、そこにはありました。
延は職を辞した13日後には、ヨーロッパに向けて旅立ちました。延、39歳の時分です。約1年間、ベルリン、パリ、ウィーン等各地で多くのコンサートに足を向け、心身ともに休息をとりました。大切な時間だったことは想像に難くありません。
帰国後は、次兄が探した紀尾井町の家に住み、個人レッスンの仕事を始めます。弟子たちの会は露伴が「審声会」と命名し、発表会は次第に日本のピアノ音楽普及に推進的役割を果たすようになります。延は弟子の性格を把握しており、個性に合った指導に長けていました。1918(大
正7)年には、離れに『洋々楽堂』と名付けた音楽堂を建てます。30−40畳の音楽サロン、記念すべき最初の演奏会はショパンの命日。ショパン好きの延が敢えてこの日を選んだのではないかと言われています。来日中の海外演奏家も招き、ピアニストのゴドフスキー、ヴァイオリニストのエルマン等、錚々たる顔ぶれが演奏に訪れました。
洋々楽堂で日々レッスンを続け、1人では教えきれないほどのお弟子さんに、助手も雇いました。高給取りのサラリーマンの月給が100円だった時代に、延の月謝は30円だったと言います。お弟子さんは華族出身者など上流階級の子弟に限られました。これには、日本でピアノ楽器が一般の家庭に普及するまで、まだしばらくの時間がかかったという背景があります。
1931(昭和6)年には、還暦と楽壇生活50周年を祝う「功績表彰会」式典が東京音楽学校で執り行われました。学校としては、過去にひどい仕打ちで追い出した延へのせめてもの贖罪だったのかもしれません。式典で延は、表彰に対して謝辞を述べ、威儀を正した中にも感激に満ちたものだったと萩谷氏は記述しています。
1937(昭和12)年、露伴と延は同時に芸術院会員となり、後年、妹の安藤幸も推されて、「芸術院三きょうだい」と言われました。
後年はお弟子さんのお子さんをも可愛がり、しかしながら疎開で弱った体に長らく患った心臓病が祟り、1946年、家族やお弟子さん達に看取られ76歳で亡くなりました。露伴と同じく池上本門寺に眠っています。1956年には延の記念碑が本門寺内に建立されました。
延は作曲専攻ではないながら、ウィーンで対位法、和声、作曲を授業や個人で学び、記録がある範囲では61歳まで作曲をしました。主な作品は、邦人初の器楽曲--ヴァイオリンソナタ変ホ長調1895年作(一部未完)、同ニ短調1897年作(同)。ピアノ独奏小変奏曲、ピアノ連弾小曲。声楽曲は、中学唱歌「今は学校後に見て」1901年作。混声4部合唱付交響曲「大礼奉祝曲」1915年作は、大正天皇即位記念式典のため。昭和天皇の誕生日を祝う「常若の花」(歌詞は与謝野晶子に依る)は1929年作。自身の功績表彰会のために、女声三部合唱曲「蘆間舟」1931年作。2曲のヴァイオリンソナタは、構成力の高さと豊かな音楽性に非凡な才能を感じさせます。出典に音源をご紹介しています。
出典/References
小林緑 『女声作曲家列伝』平凡社選書、1999年
萩谷由喜子 『幸田姉妹〜洋楽黎明期を支えた幸田延と安藤幸』ショパン社、2003年
青木玉 『記憶の中の幸田一族』講談社文庫、2009年
平高典子 「作曲家としての幸田延」『芸術研究 9―玉川大学芸術学部研究紀要』2017年、 pp. 1-14
同上 「幸田延のヨーロッパ音楽事情視察」『芸術研究 7 ―玉川大学芸術学部研究紀要』2015年、 pp.13-27
岡田暁生監修 『ピアノを弾く身体』春秋社、2003年
ヴァイオリンソナタ第1番変ホ長調 https://www.youtube.com/watch?v=yryTmyT_0QA
同、第2番ニ短調 https://www.youtube.com/watch?v=K6hBx-Ue6eg
2曲とも、渡辺響子(Vl) 吉岡由依(Pf)
この度の演奏はピアノ連弾小品、音源を聞き取りした筆者編曲のソロ版をお聞き頂きます。明る
く闊達で、もっと聞いていたいような、踊りたくなるような小品です。
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