
ふと、駅前の古本屋に入ったら、石黒忠悳(いしぐろ ただのり)の『懐旧九十年』という文庫本が目に飛び込んできました。石黒という人は、幕末から明治初めの日本医学の草創期に活躍した医学者であること、森鴎外より前の陸軍軍医総監であったことは知っていました。その回顧録です。近代医学の黎明期の医学界のエピソードが書かれているのではないかと思って、古本で500円というのは少し高いと思いながら買ってしまいました。
石黒は、93歳の生涯の中で、若いころの佐久間象山との出会いから、地位を得ていくにつれて山形有朋、大山巌、桂小五郎、森鴎外等々非常に多くの有名著名な明治人と交わり、その人々との思い出を綴っています。
明治12年30歳のころ、陸軍軍医の石黒は文部省御用掛兼務の辞令で、東京大学医学部の綜理心得という職に就いて、医学教育に当たっていたのですが、そのころの回想を述べている中ではっと目を引く一文に出会いました。日本で最初の女医荻野吟子のことが書かれていたのです。石黒の懐旧録を引用してみます。
「或る時、一女学生が、当時文部書記官をしていた永井久一郎氏の添書をもって参り、自分は女子高等師範学校を卒業した荻野吟子と申すもので、方々から聘せられますが、これを断って今から医学を学び女医となりたいと思いますので、先生の御高見を伺いに出ましたとのことです。」
荻野吟子は年配の方はご存じの方も多いと思いますが、若い方はあまりご存じないと思いますので、渡辺淳一の伝記小説『花埋み』と、『日本女性史大辞典』を参考にしながら解説を加えてみます。
吟子は嘉永4(1851)年、北埼玉の俵瀬村の名主の家の2男5女の末っ子として生まれます。10歳のころには四書五経を習得したという評判の才女でした。16歳で親の決めた近在の豪農の長男の元に嫁ぎます。その夫に性病を移され、体を崩して実家に戻り、実家で療養しますが、結局19歳のとき、離縁になります。
東京に病気を治す医師がいると聞き、母と一緒に上京して治療を受けます。男性医師による婦人科の診察とその若い男の助手たちの無神経な扱いに、吟子は猛烈な羞恥と屈辱を覚え苦しみます。煩悶の末に得た結論は、自分が女医になる、女医になれば同じ羞恥に苦しむ多くの女たちを救える、でした。
ここから吟子の苦行が始まります。22歳の春、ようやく母の許しを得て東京に出て学問修業を始めます。国学者の私塾に入門するのですが、生まれつき聡明で知力に秀でた吟子は直ぐ頭角を現します。名声を聞いて甲府にある女子のための塾から助教として招かれます。甲府生活2年目の明治8年の秋に、女子の高等教育機関として女子高等師範(女高師)が開学することになります。9月の第1期生募集に応募し選ばれた74名の1人として、遅まきながらの学校生活を始めます。猛反対の末の勘当同然に東京に出て以来のことですから、学費の無心はできません。女高師は幸い授業料は免除されていますが、寄宿舎費用をはじめ生活費は自前です。甲府時代の蓄えもすぐ底をついてしまいます。熊谷の神官に嫁いだ姉に泣きついて、なんとか卒業にこぎつけました。首席での卒業です。卒業できたのはわずか15名、吟子はそのとき28歳でした。
学問の基礎的な部分は習得できましたが、さて、これから医学の勉強です。当時、官立の東大東校のほかに私立の医学校はいくつかありましたが、どこも女性は入学を許されませんでした。卒業式に吟子の訴えを聞いた女高師の教授、文部書記官の永井久一郎が、当時の医学界の有力者、陸軍軍医監の石黒に紹介状を書いてくれました。それをもって吟子が石黒を訪ねたのでした。石黒は続けます。
「私は一考して婦人は総じて内気なもので、殊更婦人病などをあらわに診察されることを忌憚するものだから、それらに対して女医が出来ることは至極よろしかるべく、医学において女では学ばれぬという学科はないから医学を修められることには賛成です、というたら、」
吟子が性病治療で診察を受けたときの屈辱や悩みを、石黒は「婦人は…婦人病などをあらわに診察されることを忌憚するものだから」と、女性一般のこととして、既に見抜いていました。さすがは現職の医師です。女性の患者の心理を理解していました。だから、石黒としては女性の医師の誕生は願ってもないことだったのです。女医になりたいという女性が現れたのは大歓迎です。そこで、「医学において女では学ばれぬという学科はないから医学を修められることには賛成です」と、すぐ荻野の志望を支持してくれました。この賛意の返事の中でも「医学において女では学ばれぬという学科はない」は、感動の一句です。今のことばでいえば、鳥肌が立つ一句です。今から見ると革命的発想ともいえます。荻野だけでなく、女性全般に対する猛烈なエンパワメントのメッセージです。この一句が、明治12年に発せられていたと知って、本当に驚喜しました。と同時に、その後の教育界の男性指導者たちが、この一句を受け継いでくれなかったことに対して大きな失望を覚えます。医学は女にはむいていない、女には無理だという謬見が長く強くはびこっていたことを思うと、石黒の一句が生きてこなかった不運が悔やまれます。
心強い石黒のことばを受けて、吟子は、自分の学べる学校の紹介を石黒に頼みます。
「それではいずれの学校がよろしいかお示しくださいとのことで、私はいずれ具体的に学校と打合せておくことにして帰ってもらい、それから二、三の学校に問い合わせたが、女学生は断るとて応じてくれません。幸い高階経徳君と同経本君の経営される下谷の好寿院という病院で、貴君の懇請ならば修業させることを引き受けよう、というてくれました。」
石黒は親身になって吟子を受け入れてくれる医学校を探します。二、三の学校に当たって断られましたが、高階兄弟が経営する好寿院が引き受けてくれます。それも石黒の懇請だから引き受けるというのです。無下に断れないほど石黒はこの業界での実力者だったのです。
「そこで、ここで学ばしめることとなり、様子を聞くと、大勉強家で成績も良いということで高階氏も称めてくれ、三年で卒業し、医術開業試験受験を願い出ました。」
めでたく医学校には入れましたが、そこで男子学生からものすごいバッシングをうけます。女は数等下と教えられてきた学生たちです。「女とともに学ぶことは慙愧に耐えない。今や医学道は地に落ちた」と叫びます。四面楚歌の中で孤独に耐える吟子です。特に困るのは女子用トイレもないことです。男子の大便用のが空いているときに使うしかありません。吟子の性病は治まってはいても完治ということはなく、頻繁にトイレに行きたくなることもあります。意地悪な男子生徒の目を盗んで用を足すのも最大の苦痛です。ある夏の夕暮れには、繁った樹木の間を家路を急いでいる時、3人の男子学生に取り囲まれて強姦されそうにもなります。上の学年になると医学演習もあります。実際の患者を診察してその所見を報告するのですが、吟子が割り当てられたのは、かつては幕府の代官の手代をしていた52歳の患者で、「女には用はない」「女医者などに見られたとあっては先祖に顔が立たぬ」と言って、患部も見させてくれません。まさに筆舌に尽くしがたい差別の屈辱や迫害に耐えに耐えて、3年間の好寿院での過程は終えました。
しかしこの先に最後の最大の難関が待っていました。医術開業試験です。これに合格しないと開業できません。受験願書を出しましたが、「婦女子に医師免許を与えた例はない」と、断られてしまいます。翌明治16年9月、今度は埼玉県知事あてに願書を出しまたが、これも却下されました。勇を鼓して、内務省に衛生局長に会いに出かけます。紹介状もなしに行っても会ってくれるはずもなく、追い返されてしまいます。そうこうしているうちに好寿院卒業後1年半もたってしまい、習得した知識も忘れかけています。思いあぐねた末にたどり着いたのが、石黒への嘆願でした。
「ところが女子には先例がないとて願書が却下されたのです。そこで荻野は勿論私も大いに困却してしまい、しばしば衛生局へ参り、長与局長はじめ当局者と議論もし懇願もして、遂に女子でも受験し得るようになり、明治十八年になってその人は前期・後期両度の試験に及第し、開業免許を得て、本郷に開業しました。これが女医の最初です。」
吟子の苦境を知って石黒自身も「大いに困却し」、いろいろな知恵を働かせ、難関打開に奔走します。石黒は三度も衛生局長の長与専斎の許へ足を運びます。「女が医者になって悪い理由はない」「西欧先進諸国にはどこにも女医者がいる、幕末のようなことを言っていては笑いものになる」「女は妊娠中出産があるから患者の治療が途切れるという者もいるが、漢方と違って西洋医学では診断治療の原則はすべて公開されているから医者が変わったから治療が変わるなどありえない」などなど、石黒は「議論もし懇願もし」女性の受験を認めさせようとします。
そして、遂に明治17年、女性の開業医受験を許す布令が正式に出されます。こうして吟子は明治17年9月に前期試験の物理学、化学、解剖学、生理学を受けて合格し、明治18年3月の後期試験で外科学、産科学、婦人科学、眼科学、薬理衛生学、細菌学、臨床実験の8科目を受験し、めでたく合格したのでした。34歳の春でした。
荻野吟子の並はずれた意志の強さと、優れた能力があってこそ、こうしたいくつもの難関を突破し、初志を貫くことが出来たのは確かですが、それを実現するにあたって、石黒の果たした役割は極めて重要なもので、これがなければ女医第1号は明治時代には生まれなかったかもしれません。
改めて、現在の教育界、特に医学部の指導層の方々に言いたいと思います。大先輩の名言、「医学において女では学ばれぬという学科はない」を思い返してください。大先輩が荻野吟子に与えたような理解と支援の手を、現在の女子学生たちにも惜しみなく差し伸べてください。
石黒忠悳(1983)『懐旧九十年』岩波書店
渡辺淳一(1980)『渡辺淳一作品集 花埋み』文芸春秋
金子幸子他編 (2007) 『日本女性史大辞典』吉川弘文館
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