WANフェミニズム入門塾の第11回目講座が1月15日(木)に開催されました。
今回のテーマは、「フェミニズム文学批評」でした。

3名の参加者が講義や議論を通じて考えたことや感じたことをレポートにまとめました。

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① 『女性作家が言葉を獲得し語った努力』 ◆ ヤギハラ

私は、神学校を出てキリスト教会の牧師をしています。今回のフェミゼミで牧師として、自分の言葉を獲得し、それを用いることの努力をし続けようと思いました。

私はキリスト教を信じる家庭で育ち、私自身も信仰しています。小さい頃から講壇に立つのはいつも男性牧師でした。私は、聖書を読むのが好きで、感動する。けれども、牧師の話しを聞くと何だか自分はついでの存在に思えました。10代の頃、「女性が語る聖書の話しが聞きたい。」と思い、未だ出会った事のない、聖書を語る女性牧師に憧れていました。

神学校に入って、女性牧師に出会う機会が増えました。しかし、男性牧師が語るような言葉遣いや内容で、自分が思い描いていた憧れの女性牧師にはなかなか出会えませんでした。聖書の話しを聞いて感動したのは、ミャンマーから日本に来られた女性牧師が語った時です。その女性牧師は、等身大で自分の体験や葛藤を用いて聖書の話しをしていて、感動しました。自分も誰かの真似や借りた言葉ではなく、"自分の言葉"で語れるようになりたいと思い、神学生時代には一生懸命に勉強しました。実際現場に出て、自分の言葉で語ることをすると、男性牧師から指摘されたり、見下されていると感じる事を言われたり、自信を失っていました。

今回のフェミゼミを通して水田宗子の『ヒロインからヒーローへ 女性の自我と表現』(田畑書店、1992年、初版1982年)を読みました。

その中で、馬鹿にされても、否定されても、言葉を獲得することをやめなかった女性作家たちの努力と知恵に触れ、心が熱くなりました。特に富岡多恵子を引用した言葉に自分は惹きつけられました。

それは、言語は社会によってつくられた(P.270)が、「言語によって「造型し」「構築し、たしかにそこに存在させる」(P.276)というような内容でした。女性の痛みや葛藤は無視されます。女性が“ことば"を用いるのは、無視されてきた女性を存在させるためである。「無かったことにしない」このような強い意志を富岡多恵子の言葉から受け取りました。

わたしも、あらゆる自分の体験や感じたことを言葉にすることで、1人でも「ついでの存在」と思っていた若い女性達が、胸を張って生活できることに繋がればいいなあ、と思いました。

今は、富岡多恵子の小説を読んでいます。物語に織り込まれている女性の身体や生命に関する葛藤や怒りがとてもリアルで共感を覚え、ハマりました!笑

富岡多恵子の言葉を借りて誰かと自分を語ることで、"自分の言葉"を獲得したい。出来れば、同世代の方と話したい。そして、これから女性として生活するのを励まし合いたい。と思い、20-30代の富岡多恵子読書会をフェミゼミで声をあげました。そうしたら、2人の方が反応してくださり、嬉しかったです!

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② 第11回フェミニズム入門塾「フェミニズム文学批評」 ◆ 服部なな

第11回フェミニズム入門塾は、「フェミニズム文学批評」をテーマに行われた。

『フェミニズム文学批評を「読む/学ぶ/書く」ために』(著・斎藤美奈子)によると、フェミニズム文学批評、ないしフェミニズム批評は、1980年代の後半から1990年代前半にかけての文学シーンないし批評シーンで「流行した概念」であり、歴史的概念であると考えるほうがわかりやすいが、「フェミニズム批評の精神」が廃れたわけではなく、ジェンダーは文学テクストの分析にとって、いまや欠かせない要素であるという。

古典をジェンダーの視点から読み直すことによって、古典の見え方が変わる。読み手によって物語は生まれ変わり、再生産される。古典は永遠に読み直せる、と上野さんは言う。しかし、長年の間、古典として認識してきてしまった作品に対し、読み直しの機会を得ることは決して容易ではない。読み直しの必要性を感じることができず、自ら機会を逃すことすらある。ちょうどフェミニズム塾の直前に、『かぐや姫の物語』という映画がテレビ放映されていたが、「かぐや姫の話をいまさら観ても・・・」とみすみす視聴の機会を逃していた自分にとって、古典の読み直しの困難さは看過できない課題だ。『かぐや姫の物語』は、竹取物語を原作とするアニメ映画で、2013年に公開されたスタジオジブリの作品だが、今回のテレビ放映後にX上でも話題となり、「女性を所有し支配し利用しようとしている欲望を「愛」と呼んで美化する男性世界の醜悪さ」を描く「フェミニズム芸術」として再評価されていた。古典を読み直すには、まず自分が固定観念にとらわれていることを知り、古典の読み直しの必要性を認識しないことには始まらないということを思い知らされた。

また、ある塾生からは古典の読み直しについて興味深いコメントがなされた。昔話の浦島太郎について、何を教訓とする話なのか今までよくわからなかったが、浦島太郎が竜宮城で乙姫にもてなされて楽しく過ごしているうちに実は膨大な時間が経過していて、玉手箱を開けたらすっかり老いた姿になって周囲に知っている人は誰もいなかった・・・という話は、男が描く「理想の女」を夢の女に演じてもらいながら長い年月を経ていたことに気づかず、我に返ったときにはすっかり老いて自分だけがたったひとり世界から取り残されていた・・・というストーリーにも読めるという趣旨のコメントだった。水田宗子による『女への逃走と女からの逃走―近代文学の男性像』のなかで、「近代文学において男性作家はしばしば理想の女性を描き、自我の構築にその理想の女性の存在を必要とするが、対する女性の方は自我の追及に男性を必要としない」という分析がなされていること等を踏まえてのコメントだった。(と記憶している。)

私は近代文学そのものをこれまでほとんど読めずにきたので、このコメントを聞いてすぐには具体的な理解が及ばなかったが、後になって最近読んだある漫画作品中にも同じテーマが通底していたことに気づいた。

『じゃあ、あんたが作ってみろよ』(原作 谷口奈津子)は、昨年ドラマ化され話題になった漫画作品だが、そこで描かれているのは「浦島太郎」になる前に気づいて変わろうとする男と、「男にとっての理想の女」である「乙姫」をやめて自我を追及し始める女の、「自立」をめざす物語といえる。

主人公である勝男は、「料理は女がするもの」をはじめとする昭和の価値観にどっぷり浸かった「化石男」として描かれ、物語の冒頭で数年にわたって交際してきた恋人である鮎美にプロポーズするもあっさり断られ、別れを切り出される。理由を聞いても「勝男さんにはわからないし、もうわかって欲しいとも思わない。」と同棲していた家から出て行かれ、1人取り残される。これまで、勝男の「理想の恋人」を演じることが自分の幸せにつながると信じて行動してきた鮎美は、結婚後これがずっと続くのかと疑問を持ち、プロポーズされると同時に別れを切り出して、自分が本当にやりたいことを探し始める。一方の勝男は、職場やプライベートでも昭和の価値観を押し付ける発言をしては周囲に引かれ、自分に原因があることに気づき始める。何が問題なのかがわからず悩む勝男は、筑前煮を作ってみたら(元彼女である鮎美の)気持ちがわかるのでは?という後輩の一言をきっかけに、それまで男はするべきでないと信じ切っていた料理を自分でやってみることを通し、自分の固定観念に1つ1つ気づいて変わっていく・・・というあらすじだ。あえて文学作品と漫画を同じ俎上にのせるが、これまでの文学の中で、自己の在り方を内省することはあっても、ここまで変わることを怖れない男性の姿が丁寧に描かれたことがあっただろうか。変わることを怖れる男性には少なくともこのような男性の変容の過程を細やかに描くことができないのではないか。

子どもの頃から鮎美と付き合うまでずっとモテていたという勝男は、自分の幻想に付き合ってくれる女性に事欠かなかったのだろう。自分を気持ちよくもてなしてくれる「乙姫」に不自由しなかった勝男は、鮎美にプロポーズを断られなかったら本当に髪もひげもまっしろな老人になるまで、そのことに気づかなかったに違いない。勝男は「女から逃走」できず、むしろ「女に逃げられた」ことを契機に(元恋人を忘れられないがために)自己と向き合い、変わることを渇望し、変化することを怖れない。

原作者である谷口は、「勝男」というキャラクターについて、「(自分も)男性に都合のいい女性像にイラっとすることがあるので、自分が描くときにも都合のいい存在になりすぎちゃいけない」とし、「若干女の理想の男」になっているかもしれないと、頭を抱えることが多い」というが、「変わることを躊躇している時にモデルケースがいることで背中を押されることもあると思う」と語る。「女性として困っていることについて、ワーッと怒っているような作品を描いても、(フェミニズム的な考えを知ってほしい相手には)読んでもらえないから、薬をゼリーで包むような作業をしながら描いているところがある」(本人のX投稿より)という。言語のみで表現する小説とはちがい、漫画や映像作品だからこそ表現できる描き方が、伝えたいテーマと相まって、より多くの人に伝わりやすい物語の世界を生み出しているといえる。

今回のフェミニズム文学批評というテーマについて、自分が理解しやすい事例に結び付けようとした結果、漫画作品まで対象を拡大させるに至ったが、かつて小説などの形態で表現されていた内容が、漫画という形態で表現されるようになっていると考えれば、言うまでもなく漫画もフェミニズム批評の対象になるだろう。良質な作り手による優れた作品は漫画作品の中にも存在する。漫画作品、文学作品をジェンダーの視点から読む、読み直すことをこれからも続けていきたい。

<参考文献>
『新編日本のフェミニズム11 フェミニズム文学批評』(2009年 編集委員 天野正子ほか)
『女への逃走と女からの逃走―近代日本文学の男性像』(1992年『日本文学』日本文学協会 編)
『じゃあ、あんたが作ってみろよ①』 (2024年 谷口奈津子 ぶんか社)
『多様で複雑な世界を、いまどう描くか―12人のマンガ家・イラストレーターの表現と思索の記録』(2025年 ビー・エヌ・エヌ編集部 編)

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③ 第11回 フェミニズム文学批評 受講レポート ◆ 東京てふてふ

女たちのディストピア
今回の「フェミニズム文学批評」では全体討論でも多くの作品名が挙がったが、そのなかでも女性作家のSF作品に注目して、SFという表現形態で作家たちは何を描こうとしたのかを短く論じる。

■よしながふみ『大奥』(白泉社、2005)
「もしも徳川の将軍が女だったら」という設定のよしながふみの『大奥』では女たちが公領域で活躍する一方、男たちは私領域に閉じ込められる。よしながふみの描く美しい男たちが、自己実現する術もなく種馬としか扱われない身の上を悲哀たっぷりに語るというその皮肉ぶりにはしびれた。男女逆転して「役割」(ジェンダーロール)を入れ替えただけでは、依然として差別は解消されない。むしろ男が弱音を吐くシーンを入れることで(ここは次回の「男性学」でも注目したい)女性差別が横行する現実社会の異常ぶりを際立たせる手腕はさすがである。

■マーガレット・アトウッド『侍女の物語』(斎藤英治訳、早川書房、2001)
また「もしもキリスト教原理主義が政治権力を掌握し、“女は子どもを産む機械”=侍女として支配される全体主義国家が誕生したら」はマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』。「侍女」と呼ばれる女性たちはまさに産む道具としか存在してはならず、宗教的性規範によって極度に抑圧された性がグロテスクな儀式を通して暴力的に「侍女」に行使されるさまを描く。そしてご存じの通りトランプ政権の誕生以降、底の抜けた現実がまるで小説に追随する様相を呈している。

■村田紗耶香『世界99上・下』(集英社、2025)
そんな中、昨年読んで衝撃を受けたのが村田紗耶香の『世界99』である。ここで描かれるのは「もしも家事・育児・SEXを担ってくれる生物がいたら」という高度な科学技術が存在する近未来だ。「ピョコルン」と呼ばれるかわいい動物を掛け合わせて作られた人工生物が、アンペイドワークと呼ばれる無償労働はもちろん、人工子宮までをも有しており、SEX、そして望めば出産までを担ってくれる。『侍女の物語』は性と生殖にのみ女の身体を還元したディストピア世界であったが、この社会では産む性は「ピョコルン」が担ってくれるので、女性たちは生理が来る前に子宮を摘出するのが主流になっている。その結果なのか、欲望の対象は生身の人間ではなく「ピョコルン」が引き受ける(ここでは人間同士の性愛はむしろマイノリティとなっている)。ここだけ見ればあれほど女の身体から切り離せなかった性と生殖からの解放かと思いきや、そうではないらしい。高度な科学技術でもっても人々の意識や行動は容易には変わらないし、男女の賃金格差や性犯罪といった差別構造は温存されたままなのが日常の会話でさりげに描写される。作中「ピョコルン」はペットショップのような店で売られていて、値段は軽中古車~高級車ぐらいの幅があり値が高いほど美しい見た目ということになっている。「ピョコルン」を家に迎え入れることになった主人公:如月空子(元同級生の女性とその子供の3人で一緒に暮らしている)が、払った対価に対して思うように家事をこなさない「ピョコルン」に苛立つ場面がある。空子は「ピョコルン」によって家事労働から解放されたのではなく、新たな抑圧者の視点を獲得したのだ。主従関係の世界では立場の弱い者にしわ寄せがいくというのが浮き彫りになる。「ピョコルン」を買うという行為からも、ケア労働は消費される対象であることが示される。これは第9回「グローバリゼーション」でのハウスメイド問題とも重なるが、ケア労働を経済的豊かさやテクノロジーで解決を図ろうとするのは、結局は新たな弱者探しの始まりなのだ。空子は新たな抑圧者にはなったが、強者になったわけではなく、女であることの生きづらさや社会環境は全く解決されていない。いくら技術革新しようが社会的構造はびくともせず、むしろ新たな抑圧装置が誕生する。この小説では、主人公の視点を通して被害と加害の視線がたびたび交差される。立場(役割)が変われば昨日の被害者が明日の加害者になる構造の歪みが、驚くほど軽やかで読みやすい文体で語られるので、主人公:空子が生活する「クリーンタウン」の不穏さがより際立つ。

このように3作品とも、作家がSFという表現を借りた形で現実世界における女性の置かれた状況を告発しているのがわかる。それだけでなく、男女の地位が逆転しようが(『大奥』)、高度な技術で性と生殖から解放されようが(『世界99』)、社会構造の変革なしには従来の差別構造は温存されたままであり、また一方で政治的意思によって先代の女性たちが獲得してきた権利はいとも簡単に奪われてしまうのだということがわかった(『侍女の物語』)。SFはもう一つの別の世界(ディストピア)を通して現実の社会問題を鮮やかにあぶりだす効果がある。別の言い方をすれば、その時代の政治的文脈において極めて批評性の高い表現手法であるともいえる。あらかじめディストピア世界を示すことで現状への警告という側面もあるが、最近の現実社会の壊れぶりを見るにつけ、地獄の釜の蓋はもうとっくに開かれているのかもしれない。現実がディストピア化している今、ここでもう一度「フェミニズム」の営みが現実社会へどう立ち向かえるのかを改めて考えなければならない。

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