2010.10.30 Sat
去る10月25日、光州(クヮンジュ)に日帰りで訪れました。日本でお世話になっている先生方が韓国にいらっしゃり、光州ビエンナーレを見に行かれるとのことで、一緒にどうかとお誘い頂いたのがきっかけです。
光州ビエンナーレ。それは、1995年から2年に一回光州で開かれている国際的美術展で、今年で8回目を数えます。イタリア語で「2年ごと」を意味する「ビエンナーレ」という言葉ですら耳慣れない私なので、「ビエンナーレ」と名のつく展覧会自体に足を運ぶのが初めてのことで、楽しみ半分不安半分といった心持ちで、訪れたのでした。

光州駅。2010年10月25日著者撮影。以下も同じ。
ソウルから高速鉄道KTX(日本の新幹線を想像して下さい)に乗り、3時間ほどで光州駅に到着します。ちなみにこのKTX、指定席が主なのですが、少なくとも私達が乗った龍山(ヨンサン)~光州間では改札もなく、車内での乗務員による切符確認もなかったことに驚きました。もちろん、乗務員はどの席が空席であるべきか把握しているので、運行中に各車両の乗車状況を確認しには来たのですが、乗客の切符を確認するという方法ではなかったことが新鮮でした。チケット代金は片道35,200ウォン(約2,800円)。バスや地下鉄、タクシーなど交通機関が安く利用できることは、生活しやすさを図る指標の一つですが、一方で、人件費はどうなっているのかと懸念しつつ、その恩恵に与っている毎日です。

メイン会場のビエンナーレ館
10時頃に光州に到着し、そのままタクシーでビエンナーレのメイン会場へ。会場は大きく分けて4つで、メイン会場であるビエンナーレ館、それと隣接する光州市立美術館、光州市立民俗博物館、そして少し離れたヨンドン市場です。
それぞれテーマが設定されており、全部で「光州ビエンナーレ」というアート空間を構成していました。5つの展示室を持つビエンナーレ館は、展示室毎にテーマを設定し(テーマ内容については文末の「展示構成」を参照)、光州市立美術館は「自画像と自己再現」、光州市立民俗博物館は「歴史と記憶」、ヤンドン市場は「イメージと小品(市民参与)」でした。とは言え、主催者側としては、「各展示館や空間、または小テーマ、セクション等の区分を設けないこととし、全体を単一展示として統合させ、全ての作品が有機的に連結して眺望できるようにする」(公式HP「展示構成」より)ことを意図しており、確かに現場では、テーマの区別はあまり意識しなかったようにも思います。
ともあれ、それらの場所で、世界31カ国、134名のアーティストにより1901年から2010年までにつくられた様々な作品が展示され、鑑賞し体験できるようになっていたのです。
恥ずかしながら、私はアートに対する造詣が浅いと自覚しています。美術館や博物館は好きで、よく足を運ぶのですが、残念ながら・・・という状況で、ましてや現代アートの展覧会は、今回が初めてのことでした。134名もの作家が参加していながら、「知ってる!」と思ったのは、アンディ・ウォーホルだけだったという有り様で、良くも悪くもまっさらな状態で、「萬人譜」の世界に触れたのでした。
そんな私の感想を一言で言うと、あまりにも陳腐で恥ずかしいのですが、「なんかすごい」としか言いようのないものでした。それぞれの作品がもつエネルギーに、その作品に作家が込めた意志とパワーにただただ圧倒され、「萬人譜」という主題通り、作家の生、作品の生、作品が語る物語の生、そしてそれらとともにある死・・・と、多くの「Live」を通り過ぎたような感覚に陥りました。
展示場所には、基本的に作品名と作家名・制作年・素材などしか書かれておらず(それすら、場所によってはどのキャプションがどの作品を指すのか分かりづらい場合もあり)、図録やガイドブック、ボランティアの解説を参考にすればある程度は分かるのかもしれませんが、それすら不十分、もしくは妥当でないと考えられるケースもあり、ほとんどの解釈は観客に任せられていました。なので、作品から受ける印象と作品タイトルにギャップのある場合(逆も然り。「無題」とされると、お手上げです。)や、タイトルや作品から受ける印象で自分なりに解釈したものが、実際は作家の意図と異なっていたり・・・と、自分の感覚や思考、先入観を試される場面に何度も出会いました。
例えば、Zhang Enliによる「通り過ぎて下さい、ここには見るものがありません」(2007)という、部屋のような空間に、ここに家具があり、人が生活していたということを示す、その痕跡を感じさせるような薄茶色のペイントがしてある作品。私は、ここで生きていた人が、なぜここを出て行かねばならなかったのか、ここで誰かが死んだのか・・・と、暴力や悲壮感を感じたのですが、実際は、ただ作家が引っ越した後の自室を再現しただけというもので、少なくとも私が想像したような暴力や悲壮感とは隔たりのある作品でした。
また、「展示概要」(文末を参照)にも、「執着」という言葉が見られるように、私などからすると、「よくもまぁこんなのやったなぁ・・・」と驚くやら呆れるやらといった作品も見られ、何が彼や彼女にそうさせたんだろうかと思いを馳せるしかなかったのでした。
ちなみに、会場内では、「写真撮影禁止」と記している場所以外では、自由に作品を撮影できたのですが、「館内撮影禁止」という他の美術館・博物館でのルールが頭と体に刷り込まれてしまっている私は、抵抗がありほとんど写真を撮ることができませんでした。
ですが、図録に全ての作品が掲載されているわけではなく(ページに限りがあり、また紙媒体に掲載するには無理のある作品も多く仕方のないことですが、全展示作品の半分も掲載されていません)、というよりも、現場で受けた印象と図録での印象に幅がありすぎるので、これから参加なさる方は、ぜひカメラを積極的に活用して、カメラの目を通して展示空間を切り取ってみるのも手かと思います。
作品個別に対する感想などは、また別の機会にしようと思いますが、印象に残っていたものを3つだけ、簡単に挙げておきたいと思います。
一つは、Gustav Metzgerによる体験型の作品「歴史的写真:上を
歩く/はいつくばって行く―オーストリアのドイツ合併、ウィー
ン、1938年3月」(1998/1999。作品タイトルは韓国語版図録に準
じる)。これは、下に写真パネルがある
のですが、上にかぶさっている布の中にもぐりこみ、布に覆われな
がら、四つんばいになって作品を見ていくというものでした。
すでにここに至るまでの多くの作品によって圧倒されていた私は、これを「体験」することに、「戻ってこられなくなる」というような怖さを感じ、恥ずかしながら、もぐりこむことができませんでした。
次は、フェミニズムとアートという議論において重要な作家だというCindy Shermanの「無題」(2010。後ろの写真パネル)と、その手前のPaul Mccarthy「庭園の死んだ男」(1992-1994)という作品。とくに「庭園の死んだ男」は、性的暴行を含む暴力を受けて死亡したと思われる二人の男性を表現した等身大の作品であり、男性被害者をテーマにしたという点が稀であるという説明を受けたこともあり、強い印象を受けました。
最後に、Liu Weiによる13分ほどの映像作品「記憶する日」(2005)です。これは、1989年の天安門事件を北京の人々がいかに記憶し、語るのか、もしくは記憶せず、語れないのか、さらには記憶していてもいかに口をつぐむのかについて、問題提起した作品です。一枚の写真を老若男女に示し、その反応をカメラにおさめるという、手法としては素朴なものであるのかもしれませんが、人々の戸惑いや反応とともに、差し挟まれる北京の風景が、事件で亡くなった人々の写真や痕跡が、中国のこの20年をうつしていました。語学学校でできた中国出身の友人が多くいる私にとっては、そういう意味でも、考えさせられる作品でした。

光州学生独立運動記念塔
夕方にはメイン会場である中外広場をあとにし、市民参加型展示場であるヨンドン市場(あいにくこの日は休みの日でした)を軽く見学した後で、予約していた帰りのKTXの時間を気にしながら、光州学生独立運動記念塔へ。これは、日本の植民地支配に抵抗して、1929年に光州で起こった学生独立運動の記念塔です。「光州」というと、まずは民主化運動が想起されますが、植民地時代にも大きな抵抗運動が起こった土地の一つであり、そのことも留意しておく必要があるでしょう。
次に、「5・18光州民主化運動」の現場であった、旧全南道庁へ。そこは、1980年5月18日から10日間にわたってたたかわれた民主化運動において、民主化を求める市民とそれを弾圧しようとする韓国軍が激しくぶつかり、多くの死傷者が出た場所であり、歴史と記憶のシンボルでもある場所です。今年はちょうどそれから30年を数えることもあり、ビエンナーレ会場の一つである市立美術館でも、30周年にあわせて、記念展「五月の花 The Flower of May」が開催されたようです。

旧全南道庁
旧道庁は、抵抗の痕跡と面影を残しながら長らく保存されてきましたが、近々、「国立アジア文化殿堂」の建設のために、取り壊しが予定されているそうです。数年前には、道庁前での署名活動など取り壊し反対運動が行われていたそうですが、私が訪れた時には見当たらず、写真を見ても分かるように、まわりが塀(トタン?)で取り囲まれ、面前に出来た文化施設(「五月の花」展が行われた場所の一つでもあるのですが)を照らす照明のために、ますます暗く、ひっそりと佇んでいました。
この旧道庁に人々が立てこもった1980年5月、私はまだ産まれていません。たった30年。たった、30年。・・・と、何度も反芻しながら、道庁を後にしました。
芸術都市・光州。その根底にあるのは、暴力に対する怒りと拒絶であり、歴史の忘却への抵抗であり、生と死の探求なのだと言えるでしょう。ですが、そうやって一文でまとめてしまうこと自体を、光州ビエンナーレや旧道庁という生と死の現場は、拒絶しているように感じました。「多様」などという言葉で言うにはあまりにも生々しい「何か」を体験することのできた、一日でした。
☆おまけ☆
光州ビエンナーレ韓国語版HPの「展示概要」・「展示構成」紹介文を訳しておきます。なお、原文に忠実に訳すことを心がけたので、日本語表現として不自然な箇所もあることを、予めお断りしておきます。
展示概要URL:http://www.gb.or.kr/?mid=sub&mode=02&sub=01
展示構成URL:http://www.gb.or.kr/?mid=sub&mode=02&sub=03
≪展示概要≫
主題:萬人譜/10,000 Lives
「萬人譜(10,000 Lives)」を主題として掲げた第8回光州ビエンナーレは、イメージとして絡んでいった人々の関係についての、幅広い探求作業として進められた。
参加作品は、去る1901年から本年まで活動した31カ国134名の作家たちの作品によって構成され、一部、この光州ビエンナーレのために特別に準備された新作も含んでいる。展示は、多くの芸術作品と文化創作品で構成され、展示自体が一つの臨時博物館として設定される見通しだ。会場内では多様な人物と象徴物、顔と仮面、偶像と人形(にんぎょう、ひとがた)が合わせられ、一個の奇妙な展示目録を構成することとなる。
第8回光州ビエンナーレの展示は、特別に人物に焦点をあて、多様な領域のメディア作品を網羅しながら、人々のイメージに対する過度な執着を巻き込んで見せてくれるものだ。その執着の対象は、人々が必要によりつくり出した代替物と模型、アバター、そして自身の写真や愛する人達のかわりとしうるものなども含まれている。
マシミリアーノ・ジオニー監督は、「芸術の歴史は、大部分、人々が人を眺めるものに関するものであるが、身体を凝視する視線、または私達自身にかわりうるものとして創造された対象であり、人物に関するもの」であると披露した。彼は続けて、「私達は古代神話の頃からイメージが(他人との)縁の面影を表現するために作られることとなったという事実を知っている」と述べる。また「イメージは幼年期に対する郷愁であると言うこともできるが、それは大切な人々と近付くことができるようにしてくれ、活力を吹き込んでくれるものでもある。イコン崇拝の病が続けられる状態、イメージに対する狂的な耽溺などを、今回の光州ビエンナーレを通して探求しようと思う」と明らかにした。
展示の主題は、詩人である高銀(コ・ウン)の30巻にも及ぶ叙事詩『萬人譜(10,000 Lives)』(マニンボ)を借用した。詩人・高銀は、1980年代に韓国の民主化運動により投獄されたことがある。彼は独房生活をしながら、知覚能力を完全保存するために、彼の全生涯を通して自身が出会ってきた全ての個々人達を模写する詩を書き出そうと決心した。彼の詩には、歴史のなかの人物はもちろん、文学内の架空の人物達も含まれている。釈放と同時に、彼は3,800篇の詩を書き始め、その詩はそのまま連作詩『萬人譜』として構成された。『萬人譜』は個々人の人類愛の百科事典であり、彼の代表作だ。
家族アルバムを広げるように、第8回光州ビエンナーレは見守る現場として、生存手段としてのイメージをじっくり見て取ろうとする。と同時に、今回の展示は、イメージ達がいかに造作されるようになり、循環されるようになり、隠され、交換されるのかを観察するということでもある。展示は数多くの生の有り様を捉えるために努力する一方、イメージのもつパワーについても綿密な分析をしようとしている。
≪展示構成≫(後半の「主要展示内容」は割愛)
・展示場所とイメージの配置
―各展示館や空間、または小テーマ、セクション等の区分を設けないこととし、全体を単一展示として統合させ、全ての作品が有機的に連結して眺望できるようにすること
―実験的現代美術の交流と疎通の場、開催地の美術伝統ならびに生の歴史と現代を連結させるビエンナーレ館と市立美術館・民俗博物館等の特性を勘案した作品配置
―メイン会場である中外公園(チュンウェコンウォン)外に、開催地の都市文化または生の現場と直接疎通連結するために、展示性格に合う別途のサイト構成
―ビエンナーレ館
1展示室:イメージの創造、イメージの提示、写真
2展示室:イメージの構成、イリュージョン
3展示室:記憶の空間、記念、生存としてのイメージ
4展示室:隠喩対象のイメージ
5展示室:記憶のイメージ
―光州市立美術館:自画像と自己再現
―光州市立民俗博物館:歴史と記憶
―ヤンドン市場:市民参与 イメージと小品
・参加作家と作品
―20世紀初めから2010年の新作まで、歴史と世代をこえる作品と若い作家達の作品をともに展示し、各時代性のなかで同時代的現代性があらわれるよう演出
―世界の主要美術館とコレクター(括弧内省略―訳者)の協力による主要作品達をはじめとした多様な視覚芸術作品と、同時代の文化的産物とをともに配置する構成
―Jean Fautrier、Andy Warhol、Bruce Numan、Duane Hanson、Cindy Sherman、Jeff Koons、Jonathan Borofsky、イ・スンテク、オ・ユン、チェ・ビョンス、ヤン・ヘギュなど、31カ国132名
―専門的な現代美術作家達の創作品とともに、テディベアコレクション、コットゥ(あやつり人形劇の人形)コレクション、肖像画プロジェクトなど、大衆文化のなかのアイコンや人々に親しまれてきた媒体をともに展示する構成
・主要展示内容(略)
慰安婦
貧困・福祉
DV・性暴力・ハラスメント
非婚・結婚・離婚
セクシュアリティ
くらし・生活
身体・健康
リプロ・ヘルス
脱原発
女性政策
憲法・平和
高齢社会
子育て・教育
性表現
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