加納実紀代先生が2月22日に亡くなられた。
敬和学園大学を定年退職されてからしばらくして持病の肺気腫が進み、酸素吸入が必要となった。しかし、そんなことはものともせず、これまでどおり研究、執筆活動を続け、東京近辺はもちろんのこと、広島、新潟、岩手などどこへでも講演やシンポジウムに出かけられていた。しかし、昨年5月にすい臓がんとの診断を受けた。闘病生活の中で、昨年11月、1980年以降につづった文章をまとめ、『「銃後史」をあるく』を刊行された。その真っ赤な帯には「戦前・戦後をつらぬく被害と加害 戦争は、女を<解放>したか」とある。戦争とジェンダー、戦争を考える上での被害と加害の二重性は加納先生が取り組み続けたテーマだった。

加納実紀代先生(敬和学園大学での最終講義、2011年1月14日)

加納先生は、2002年4月から2011年3月まで本学の特任教授として教鞭を執られた。
日本近現代史の担当者だった田中利幸先生が広島平和研究所に転出されたため、後任人事が行われた。選考委員会のメンバーが、「信じられない大物が来てくれるかもしれない」と興奮していたのを思い出す。加納先生は当時すでに、『銃後史ノート』(山川菊枝賞受賞)、『女性と天皇制』、『まだフェミニズムがなかったころ』、『女たちの<銃後>』などの著作がある押しも押されもせぬフェミニスト歴史家だったからである。それなのに、新発田市へ来てくださった。限られた授業数だけ担当すればよい特任教授の仕事条件が、研究・執筆・講演の仕事とちょうどよいバランスが取れるからと言っておられた。しかし、その目的は、若い人たちに、日本の近現代史を通して、日本の現在と行く末を考えてほしいと願ったからだった。

敬和学園大学での授業風景(2005年12月13日)

担当科目の「日本史概説」ではコメどころ新潟という親しみやすさを考えて、コメの日本社会への定着過程を中心に日本史を概観している。一方「歴史学」では「アメリカYES! 中国NO! なんてもう古い。…あと1世代もすれば中国は世界一の経済大国。…日本の将来は、中国・韓国など東アジア諸国との友好関係なしにはありえない。その時ひっかかるのが<歴史>である」と2006年度のシラバスにある。この授業では、近代における日本・中国・韓国の歴史とその相互関係を扱った。
ゼミでは、テレビや新聞におけるジェンダー表象を検証し、日本社会におけるジェンダー秩序をテーマにする時もあれば、在日外国人や近隣諸国の人々が日本のメディアでどう表象されているかをテーマとしたり、地球温暖化、少子高齢化、ワーキングプア問題をやはりメディア分析をもとに学生に報告・討論させた。学生たちは、メディアを批判的にみる姿勢を獲得し、自分の意見を持つ訓練を重ね、視野を広げていった。一方で、断固保守的な考えが書かれたミニッツ・ペーパーに、考え込んでおられることもあった。


本学は教員全体に占める女性教員の割合が高い。加納先生は、女性陣の顔ぶれを見て、これだけいろいろな国の歴史・文化・文学を研究している人がいるのに共同研究をしない手はないと、「敬和学園大学 戦争とジェンダー表象研究会」を立ち上げた。第二次世界大戦期の雑誌や映画の表象分析を通して、主として戦争とジェンダーについての国際比較を行った。私も共同研究に加わった一人だった。 加納先生のご在職中から退職後にいたるまで、十数年にわたる共同研究は、日本学術振興会の科学研究費助成を数度受けた。その研究成果は、西洋史学会やジェンダー史学会でシンポジウムとして発表してきたが、加納先生は、むしろ一般の市民に対するシンポジウムを重視した。アカデミックな領域にとどまらず、多くの人々に成果を知らせ、意見交換することが大切と考えられておられた。それが、学生たちと語り合い、求められれば、どこへでも講演に出かける姿勢につながっていた。

市民向けの講座でも積極的にお話しくださいました(三条市オープンカレッジ、2002年10月21日)

そういうことで、加納先生のお力を借りて、本学の創立15周年記念講演会では、故若桑みどり氏を講師に「あなたは戦争を知っているか -イメージが語る忘却された過去 -戦争の真実を知るために-」を開催した。開催の2005年は、戦後60年の年であった。S31大教室を埋める聴衆の熱気を今でも思い出す。

若桑みどり氏との対談(敬和学園大学創立15周年記念講演会、2005年11月12日)

2007年には、「軍事化の<現在>を問う -ジェンダーの視点から」をテーマに上野千鶴子氏を招いて、シンポジウムを新潟市民プラザで開催した。加納先生は敬和学園大学の教員として知られるところとなり、求められて地元の女性史研究グループの仕事も支援された。

上野千鶴子氏講演会「軍事化の<現在>を問う -ジェンダーの視点から」(2007年11月10日)

「日・独・米女性の戦時活動」について語る加納実紀代先生(上野千鶴子氏講演会、2007年11月10日)

加納先生は、本学にご在職中にも戦争にまつわる地を多数訪れている。満州に渡った新潟集団清和団の悲劇の地を訪れ、持ち帰ったニッコウキスゲを本学の庭に植えられた。北朝鮮に旅立った日本人妻を現地に訪ねる旅行にも参加した。日本による占領時代を知る女性たちの聞き取りをするために台湾へも出向かれるなど、興味深いお土産話をたくさんお聞きした。加納先生は、戦争体験者の声に耳を傾け共感し、それを犀利な筆致で論攷の中に記録していかれた。
特に記憶に残るのは、アメリカへ行かれた時の話である。初めて原爆実験が行われたアメリカのトリニティ・サイトを訪ねられた。そこは年に何回か一般公開されるのだが、その場所を見た感想はこうだった。「子ども連れのアメリカ人家族が、まるでピクニックでもするように来ているのよ。」スミソニアン航空博物館も見学された。小さな零戦の近くにエノラ・ゲイの巨体が並べられている様子を語る時、少し興奮されていた。その巨体を見た時、あの原風景に引き戻されたのだろう。

敬和学園大学の最終講義で原爆(トリニティ・サイト)について語られました(2011年1月14日)

加納先生のお父さまは原爆で、遺骨も残らない状態で亡くなった。一緒に遊んでいた男の子、近所の優しかったお姉さんの悲惨な死を目の当たりにした。眼前に広がる地獄絵は、5歳だった少女の感情を麻痺させた。この原風景の理不尽さ、怒り、悲しみ、悲惨は、その後の加納先生の研究の原動力だったと思う。その一方で、お父さまが軍人で、ご自身がソウルの陸軍官舎で生まれた事実とも向かい合う。
加納先生個人の中に、原爆の被害者でありながら、侵略者の子という加害者性が併存していることが、先生のお仕事の基盤であり続けた。それは個人の研究姿勢の問題にとどまらず、日本の戦争責任の問題にも通じる。被爆国、日本という被害性だけでなく、加害性をきちんと認識すること、加納先生はその重要性をそのお仕事の中で訴え続けてこられた。


加納先生は、夏になると川崎のご自宅から箱根の書斎に移って仕事をされていた。そこに、定年退職後、新潟から持ち帰ったカタクリの種を植えられたが、今は4月になるとカタクリの花が群生する。「4月下旬から隣のお寺にはシャクナゲ、クマガイソウ、シラネアオイ、ボタン等が次々に咲きます。また箱根に遊びに来てください。」という2月7日のお誘いのメールが最後となった。

加納先生が植えられたニッコウキスゲ(敬和学園大学キャンパス、2007年5月23日)

加納先生が本学に特任教授として着任していただいたことで、本学の学生、同僚としての教員、大学、そして新発田や新潟の市民はどれだけの恩恵を受けただろうか。
加納実紀代先生の研究者としての生き方を間近に体験できた幸運に深く感謝し、先生のご冥福を心からお祈りしたい。

(国際文化学科教授 桑原ヒサ子) 

本記事は、敬和学園大学と著者の了解を得て、下記のサイトから転載しています。
https://www.keiwa-c.ac.jp/campus_blog/2019/03/06/51306.html