発災から間もなく10年目を迎える東日本大震災と原発事故。
あの日、事故のあった原発から60キロ先の小学校ではどのような状況だったのか?
また、避難先の小学校ではどのような受け入れだったのか?
当時小学四年生で今年成人式を迎えた娘が重たい口を開き記してくれた。
ぜひ多くの大人たちに原発事故による子どもの苦悩をも知ってほしい。

◇ ◇ ◇

2011年3月11日、私の通っていた小学校では「帰りの会」をしていました。
帰宅の準備をしながら担任の話を聞いていたところ大きな揺れが訪れました。

担任が「机の下にもぐれ!」というので私はすぐさま机の下で丸くなりました。
すると一人のクラスメイトが激しい揺れと担任の大きな声に動揺し、泣き始めたところ、次々と泣く子が増えていきました。

しばらくすると、「ランドセルは置いて、早く避難しなさい!」と担任から指示があったので、避難訓練どおり、体育館に向かったところ、体育館の天板が落下していたため、校庭に避難をしました。

校庭に着くと、すでに保護者や近隣住民が避難をしてきているのが目に入りました。
私たちは寒空の下、クラスごとに並ばされ、保護者が来た順に帰宅となりました。

あの日は、降雪するほどの寒さでした。
そのため、保護者の迎えのない子どもたちは、耐震工事のために設置されたプレハブ校舎に移動をさせられました。

「お母さんはいつ迎えに来てくれるのだろう?」
「次は誰が呼ばれるのだろう?」

「ひょっとしてお母さんは地震で死んでしまったのではないか?」
「迎えの途中で犠牲になっていないか?」

時間の経過とともに不安を口にする子どもたちが増えていきました。
その都度担任は「大丈夫だよ」とやさしく言葉をかけ続けてくれましたが、一人二人とクラスメイトが帰宅するのを見送るに連れ、私の不安や孤独感は募るばかりでした。

そんな中、私はダウンジャケットを着ていないことが気になっていました。
避難の際、「何も持つな!」と言われたため、ダウンジャケットを教室に残し、上履きのままで避難をしていたのです。

そのため私が寒さで震えていると、「先生が持ってきてあげるから!」と担任が校舎へ向かいました。
15分おきくらいに大きな余震があったため、耐震工事中の校舎に戻るのはとても危険な行為であることを子ども心にもわかっていたので、担任の行動は正義の味方のように頼もしく、胸が熱くなると同時に、不安と孤独感が少し和らいだものでした。

しかし、プレハブに残された児童はとうとう私と友人の二人だけになりました。
「どっちが最後になるのだろう・・・」

再び大きな不安と孤独感に襲われそうになっていたところ、「Yちゃん!お母さんが来たよ!よかったね!!」と担任から声をかけられ、一気に全身の力が抜けたものでした。

「やった!お母さんは生きてた!ひとりぼっちにならない!」
安堵する気持ちと同時に、迎えの遅かった母に対しての怒りが沸き起りました。

「なんでもっと早く来てくれなかったの!!もう寂しかったんだから!!」
と涙ながらに抗議したものでした。

そしてそこではじめて私は自分の手のひらに痛みを感じました。
よく見ると、両手のひらの中央には、それぞれ4本の爪痕があり、少し血がにじんでいたのです。

それは母を待つ間、強くこぶしを握り続けていたためでした。
このときの大きな不安とたとえようのない孤独感は今でもトラウマとなっています。

また、こんなことも記憶に残っています。
それは友人との会話です。

学校では、窓を閉め切り、全員が一日中マスクを着用しなければなりませんでしたが、原発や放射能の話題が出ることはありませんでした。

私は母から「極力肌を出さないように!」と言われていたのですが、ある日、友人が素足で登校してきたので、「肌を出したら危ないからタイツ履きなよ!」と言ったところ、「この人は何を言っているのか?」とも言いたげにきょとんとされたのです。

そのときはじめて放射能に対する情報格差があることに気づきました。
それはその後も縮まることがなく、ほとんどのクラスメイトの放射線防護は緩く、むしろ私の母が過剰すぎるのではないか?と思えてしまうほどでした。

しかし、数年後、小児甲状腺がん多発のニュースを目にし、母の放射線防御は過剰ではなく、予防原則に則った正しいあり方だったと思いました。

それから、こんなこともありました。
我が家が避難をする前、避難先でいじめにあう子どもたちのニュースが駆け抜けました。

そのことから、母と学校の協議の上、避難先の小学校では、「福島県出身」を隠そうということになったのです。
しかし、転校先の子どもたちは無邪気に私に質問をしてきたのです。

「ねえ、どこから来たん?」と。
私は母に言われた通りに「東北から・・・」と応えました。

すると、「東北のどこや?」となるのです。
私が口ごもれば口ごもるほど、彼らは転校元の追求をしてきたのです・・・。

その時私は思いました。
自分は何も悪いことをしていないのに、原発事故から避難してきた被害者であるにもかかわらず、なぜ、コソコソしなければならないのか?

正直に話せないもどかしさと苛立ちに小さな心が押しつぶされそうでした。