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弱くてもかまわない 野田潤
2010.11.26 Fri
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一生誰にも依存せずに生きられる人はいない。全くその通りだ。というか、むしろ変なのは「自立」の方なのではないか。強くて揺るぎない近代主体(ジュディス・バトラーが批判したような)を前提とした、「自立」という概念そのものの方が、実はおかしいんじゃないだろうか。
そこで今回は、「自立」を脅迫されることなく安心して読める本を、いくつか紹介してみようと思う。
梨木香歩『家守綺譚』
主人公の綿貫征四郎は、売れない文筆家だ。お金を稼げないので、空き家となった友人の実家に「家守」という名目でタダ住まいさせてもらい、その上ほとんど施しに近いようなお給料を「家守」という名目で貰いながら、生きている。だがその実態は、ただ住んでるだけ。家のメンテナンスも庭の手入れもしない。本当にただ、住んでるだけなのに。ああ、いいなあ。
経済的にも居住環境的にも家事能力的にも自立とはほど遠い綿貫の、のんべんだらりと淡々とした毎日の生活が、しかしこんなにものんべんだらりと淡々と心地良いのはなぜだろう。
それはたぶん綿貫の依存性が、作中で誰からも批判されないからだ。「俺のお情けでお前を住まわせてやってるんだぞ!」と言われても全くおかしくない綿貫の状況は、しかしながらこの世界の中では、「家守してくれてありがとね!」になるのである。ただ住んでいるだけで、ものすごく何かの役に立っているような感じがする。
だから、綿貫が経済的にも生活的にも他人にもっぱら依存していることが「悪いこと」だという発想自体を、この本の読者は多分ほとんど思いつかないのだ。もしかしたら、登場人物がオバケとか河童とかサルスベリの精のような、人外や世俗外の生物ばっかりなのも、結構関係あるかもしれないが。色んな意味で、癒しの一冊。
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恩田陸『光の帝国』
ツル先生は、山奥で学校を開いている。親に虐待されたり、捨てられたりした子供の学校だ。
「常野」と呼ばれる特殊な一族のその子たちは皆、不思議な能力を持っている。と同時に、何らかの欠損も抱えている。虐待のショックで言葉がつながらなくなってしまった健、喘息持ちのあや、音楽以外の音に反応を示さない岬、人間不信の信太郎。
時は戦時中、「常野」は一般社会の人間から狩られ、隠れ潜むように生きている。どの子も世界に居場所を見つけられず、いくつもの痛みを抱えた子供だ。ツル先生は山深いこの学校でゆっくりと、その子たちにかけがえのない場所を与えていく。
言葉をちゃんとしゃべれない健は、紙で語るようになる。「僕たちは、無理やり生まれさせられたのでもなければ、間違って生まれてきたのでもない。それは、光があたっているということと同じように、やがては風が吹き始め、花が実をつけるのと同じように、そういうふうに、ずっとずっと前から決まっている決まりなのだ」。
たとえどんなに弱くても、どんなに「普通」じゃなくても、君たちはそれで尊いんだと、無言で示すツル先生も、コマチ先生もジロ先生もとても暖かい。世界に居場所のなかった子供たちは、ツル先生の学校で、その依存性を恥じる必要が決してない。そうしてだんだんと打ち解けていく。それはとてもやさしい場所だ。いずれ悲しい終わりが来るとしても。
何かとても綺麗で儚いものに、胸をしめつけられるような一冊。
田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』
ジョゼは足が悪くて、働けなくて、お金もなくて、家事もゆっくりゆっくりしかできなくて、そして女で、要するにいわゆる近代的な「自立する主体」イメージの、ことごとく対極にある存在だ。
けれどもジョゼは決して、自らの依存性を恥じたりはしない。介助してくれる男を高飛車に叱り飛ばし、自信満々に要求し、堂々と苦情を述べ、ののしる。
ジョゼに叱り飛ばされる男もいい。何がって、ジョゼに「お前を助けてやってるオレ」というものを、一度もアピールしないところがいい。市松人形のような顔で高圧的な物言いをするジョゼを面白く好ましく思いながら、ただひたすらに叱り飛ばされ、ののしられるがままに、馴染んでいるのがとてもいい。
ジョゼはもちろん、自らの依存性がもたらす現実的な痛みも不利益も、既に山ほど経験している。男がいつか自分から離れていくかもしれないことすら、ジョゼはちゃんと判っている。それでいいとすら思っている。
それでもジョゼは自信と確信に満ちている。そして依存しなければ生存すらできない、自らの存在そのものを、ジョゼは決して恥じたりしない。
少し先の将来さえどうなるかわからない今の中で、ジョゼは幸せを感じて生きている。愛しい男を叱り飛ばしながら。胸を張って。
これらの本を読んでいて、ひとつ気づくことがある。どうやら世界には二つの依存があるらしい。不愉快でない依存と、不愉快な依存が。
何が二つを分けるのか。
少し考えてみたところ、どうやらそれは依存にかかわる当事者たちの「相互性」に関係しているようだ。「依存」が「支配」につながらない、「自立」が脅迫されない、そんな世界を描いた上記三作には、共通点が二つある。ひとつは弱者が依存を恥じていないこと。もうひとつは、弱者に依存を「恥じさせる人がいない」ことである。
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臨床心理学者の信田さよ子は『共依存・からめとる愛』の中で、「非対称的関係におけるかけがえのなさが、実に入り組んだ対象支配へと転化する可能性」を指摘している。ここでのポイントは、「非対称性」と「支配」であると、私は思う。
何をした時にそれが支配になってしまうのか。依存と支配が繋がるのはどういう時か。
依存を惨めだと「思わされてしまう」カラクリを考えようとするならば、この問いはおそらく避けて通れない。
しかし、上記三作の小説の心地良さを支えていたのが何かを考えてみると、その逆の状態――何が依存を恥じさせるのか、についても、おのずと答えが見えてくる。
おそらく相手との関係において、「私がお前を支えてやっている」「私が生かしてやっている」という自立の傲慢と圧倒的な一方向性が立ち上がった瞬間、それは「支配」へと繋がって行くのではないか。依存せざるをえない人間に対して、その人を支える側の人間が、「お前を支えてやっている私」「お前を生かしてやっている私」を突き付けるとき、それはそのまま「自立できないお前」を糾弾する言葉になる。そう、例の古典的名セリフを思い出すではないか。
「いったい誰が食わせてやってると思ってるんだ!」
近代日本社会に「主婦」と「子ども」が誕生し、それが大衆化してからウン十年、この世を通り過ぎていった何千万の夫の口から父の口から、一体今までに何億回、そんな言葉が吐かれただろう。
そして信田さよ子氏を含む多くの論者が指摘するように、親子間にも「支配」のメカニズムは立ち上がりうる。「お前を育ててやっている私」「お前を養ってやっている私」「お前のためにこんなに色々やっている私」。そういう類いの「私」意識は、子供に対しても十分、発動されうる。
「お前を助けてやってる私」。それを主張することは、近代主体としての自らの自立性をアピールするにはいいのかもしれないけど、支えられている人にとっては、やさしくない。しかし、綿貫や常野の子供たちやジョゼを支える人たちは、決して彼らにそんなものを突きつけない。そこには「自立した私が依存するお前を助けてやっている」という傲慢が全くない。
誰も「ワタシが」を言わないから。近代社会の自立した「主体」を突きつけられないから。身近な他者が決して依存を恥じさせないから。だから、支えられながら生きている人たちと、その人を支えている周囲の人たちの関係が、とてもやさしく、心地よく読めるのではないかと思う。
最後に、ただし、それは涙腺が刺激されないという意味では決してない。実は上記の本の中には、個人的にボロボロに涙の出る話が思いっきり混じっていたりする。でも私にとっては、その涙は決して不愉快なものではない。それは「依存」をかけがえのないものとして、良いものとして、地獄の中で最後まで笑いながら生きている人たちを見たときの、何かとても切なくてやさしくて壮絶で圧倒的な涙なのだ。
たぶんあまりにもズタボロで泥まみれにうつくしいものを見ると、人は泣いてしまうのだと思う。
次回「自立神話からの脱出」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから
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