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犬と猫、そしてホルモン  堀あきこ

2011.01.08 Sat

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.

猫にまつわる熱田さんのエッセイを読んで、しばらく猫に触れていないことに気づいた。近所に住む友人宅の猫が死んでしまってから――もう3年になる。こんなに長い期間、猫に触れていないなんて、物心ついてから初めてかもしれない。

我が家のある路地を我が物顔で歩く巨大猫や、いつもホームレスの叔父さんのお腹に乗っかって寝ている2匹の猫、妹の家にいる恐ろしく人見知りで押し入れから出てこない猫など、手を伸ばせば届きそうなところにいるのだが、彼・彼女らは触れさせてくれないタイプの猫なのだ。[clearboth]

私は猫も犬も大好きだ。今は犬と暮らしている。犬や猫の胸のあたりに鼻を押し当てて“ケモノ臭”を嗅ぐとほっとする。猫の肉球をまぶたに押し当て、つげ義春の『やなぎ屋主人』ごっこをするのも楽しいし、犬の口をあけ、歯のチェックをしながら、迷惑そうにしている犬の顔を見るのも好きだ。

だから「犬派? 猫派?」と問いかけられた時は、「どっちも好き」と答えるのだが、たまに「どっちかっていうと?」とたたみかけられることがある。今まで暮らしてきた犬たち、猫たちの顔が思い浮かび、答えに窮していると、「じゃあ、自分の性格は犬っぽいと思う?猫っぽいと思う?」なんて新たな質問がきたりする。

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熱田さんのエッセイもあるとおり、確かに、猫と犬にはある種の傾向があって、それを犬っぽい/猫っぽいと表現できると思う。『星守る犬』というマンガでは、まさに犬っぽい性格の犬が、飼い主の野垂れ死にといえそうな最期を見届ける。この作品は“泣ける本”としてベストセラーとなり、映画化もされるそうだ。

私自身は、実は、この作品で素直に泣くことができず引っかかってしまった。堕ちていくままの主人公である中年男性が、なんともじれったく、なにより、そんな彼に寄り添い続ける犬の姿が悲しすぎるのだ。ただ、「日輪草」というタイトル作品の後日談が一緒に収められていて、個人的にはこちらの方が犬とともに暮らす喜びを伝えてくれる、とても良い話なのでオススメしたい。[clearboth]

さて、自分を犬か猫のタイプに当てはめるというのは、難しい問題だ。自分の中には両方あるような気がする。差し伸べられる手を拒む猫のように頑なな一面もあるし、でも基本的には一人より誰かと一緒にいる方が好きだ。だから、自分を犬っぽいか猫っぽいか決めあぐねてしまう。

と同時に、この「犬派? 猫派?」「自分の性格は犬っぽい? 猫っぽい?」という質問は、別の意味でもモヤモヤしてしまう。この問いには、犬か猫かどちらかを好きなはずだ、という前提が隠されているからだ。犬も猫も苦手、嫌いな人はたくさんいるし、そもそも、動物全般と距離を置いて生きていたい人もいる。

なんだかこの前提には、「食べ物の好き嫌いがないのはエライ」とか「植物を愛する人は心優しい」とか「子ども好きな人に悪い人はいない」とか、そういうメッセージに似た胡散臭さを感じてしまうのだ。

妙なことにこだわっているのかもしれない。けれど、次のような文章に出会うと、やはり胡散臭さに注意したいと思う。

「なんやねん、ちりめんジャコやったら何千匹殺してもええのに、なんで牛とか豚やったら差別されなあかんねん」

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.これは、世界各国の被差別の食卓……アメリカ黒人のソウルフードにブラジルの奴隷料理、ロマの食材、カースト不可触民の牛肉料理、日本の被差別部落で食べられるホルモン、といった「それぞれの被差別民たちの血と汗と悔し涙が込められている」料理を追った『被差別の食卓』に出てくる言葉だ。

明太子やちりめんジャコと屠殺の間に引かれる線と、私が胡散臭いと感じるものとの間には、薄く遠いかもしれないが、繋がりがあるように思う。[clearboth]

ところで、今、一緒に暮らしている犬はビーグルとバセットハウンドのミックスだ。フラフラと町をさまよっていたところを、ボランティア団体に保護され、そして、長い間、里親募集のサイトに掲載されていた。

発症はしていないけれどフィラリア陽性であることと、写真写りの悪さのせいか、他の子がどんどんもらわれていくのに、いつまでも貰い手がつかなかった。ふてぶてしい顔つきと、ミックス犬独特のアンバランスな身体。気になってしかたなく、結局、家族に迎えることを決めた。

彼を引き取りに行った先で聞いた、強烈で、胸の悪くなる話がある。

彼は奈良県で保護されたのだが、バセットハウンド×ビーグルというミックス具合からして、おそらく狩猟家に飼われていたと考えられる。ボランティアの方の話によると、禁猟期間になると、奈良のある地域では彼のような猟犬がたくさん保護されるらしい。

犬を猟に使えない期間、彼らの世話を疎ましく思う狩猟家が犬を捨ててしまうのだ。なかには、山のなかで木に鎖につながれ、逃げることを防ぐために両手を銃で撃たれた犬さえいるらしい。見かねた地元の人たちがご飯をあげたり、引き取ったりしているらしいが、それにも限界がある。

ボランティア団体の方の静かでありながらも怒りの込められた話に、私は言葉も出なかった。

犬も猫も好きだ。たまにしか食べられないが“あぶらかす”も好きだ。私は、せめて、好きなものが背負うものに敏感でいたいと思う。

次回「「無邪気」をやめる日」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから

犬と猫、そしてホルモン    堀あきこ

猫にまつわる熱田さんのエッセイを読んで、しばらく猫に触れていないことに気づいた。近所に住む友人宅の猫が死んでしまってから――もう3年になる。こんなに長い期間、猫に触れていないなんて、物心ついてから初めてかもしれない。

我が家のある路地を我が物顔で歩く巨大猫や、いつもホームレスの叔父さんのお腹に乗っかって寝ている2匹の猫、妹の家にいる恐ろしく人見知りで押し入れから出てこない猫など、手を伸ばせば届きそうなところにいるのだが、彼・彼女らは触れさせてくれないタイプの猫なのだ。

私は猫も犬も大好きだ。今は犬と暮らしている。犬や猫の胸のあたりに鼻を押し当てて“ケモノ臭”を嗅ぐとほっとする。猫の肉球をまぶたに押し当て、つげ義春の『やなぎ屋主人』ごっこをするのも楽しいし、犬の口をあけ、歯のチェックをしながら、迷惑そうにしている顔を見るのもいい。

だから「犬派? 猫派?」と問いかけられた時は、「どっちも好き」と答えるのだが、たまに「どっちかっていうと?」とたたみかけられることがある。今まで暮らしてきた犬たち、猫たちの顔が思い浮かび、答えに窮していると、「じゃあ、自分の性格は犬っぽいと思う?猫っぽいと思う?」なんて新たな質問がきたりする。

確かに、熱田さんのエッセイもあるとおり、猫と犬にはある種の傾向があって、それを犬っぽい/猫っぽいと表現できると思う。『星守る犬』というマンガでは、まさに犬っぽい性格の犬が、飼い主の野垂れ死にといえそうな最期を見届ける。この作品は“泣ける本”としてベストセラーとなり映画化もされるそうだ。

私自身は、実は、素直に泣くことができず引っかかってしまった。堕ちていくままの主人公である中年男性が、なんともじれったく、なにより、そんな彼に寄り添い続ける犬の姿が悲しすぎるのだ。ただ、「日輪草」というタイトル作品の後日談が一緒に収められていて、個人的にはこちらの方が犬とともに暮らす喜びを伝えてくれる作品だと思うのでオススメだ。

さて、自分を犬か猫に当てはめるというのは、難しい問題だ。自分の中には両方あるような気がする。差し伸べられる手を拒む猫のように頑なな一面もあるし、でも基本的には一人より誰かと一緒にいる方が好きだ。だから、自分を犬っぽいか猫っぽいか決めあぐねてしまう。

と同時に、この「犬派? 猫派?」「自分の性格は犬っぽい? 猫っぽい?」という質問は、別の意味でもモヤモヤしてしまう。この質問には、犬か猫かどちらかを好きなはずだ、という前提が隠されているからだ。犬も猫も苦手、嫌いな人はたくさんいるし、そもそも、動物全般と距離を置いて生きていたい人もいる。

なんだかこの前提には、「食べ物の好き嫌いがないのはエライ」とか「植物を愛する人は心優しい」とか「子ども好きな人に悪い人はいない」とか、そういうメッセージに似た胡散臭さを感じてしまうのだ。

妙なことにこだわっているのかもしれない。けれど、次のような文章に出会うと、やはり胡散臭さに注意したいと思う。

「なんやねん、ちりめんジャコやったら何千匹殺してもええのに、なんで牛とか豚やったら差別されなあかんねん」

これは、世界各国の被差別の食卓、アメリカ黒人のソウルフードにブラジルの奴隷料理、ロマの食材、カースト不可触民の牛肉料理、そして日本の被差別部落で食べられるホルモン……「それぞれの被差別民たちの血と汗と悔し涙が込められている」これらの料理をおった『被差別の食卓』に出てくる言葉だ。

明太子やちりめんジャコと屠殺の間に引かれる線と、私が胡散臭いと感じるものとの間には、薄く遠いかもしれないが、繋がりがあるように思う。

ところで、今、一緒に暮らしている犬はビーグルとバセットハウンドのミックスだ。フラフラと町をさまよっていたところを、ボランティア団体に保護され、そして、長い間、里親募集のサイトに掲載されていた。

発症はしていないけれどフィラリア陽性であることと、写真写りの悪さのせいか、他の子がどんどんもらわれていくのに、いつまでも貰い手がつかなかった。ふてぶてしい顔つきと、ミックス犬独特のアンバランスな身体。気になってしかたなく、結局、家族に迎えることを決めた。

彼を引き取りに行った先で聞いた、強烈で胸の悪くなる話がある。

彼は奈良県で保護されたのだが、バセット×ビーグルというミックス具合からして、おそらく狩猟家に飼われていたと考えられる。ボランティアの方の話によると、禁猟期間になると、奈良のある地域では彼のような猟犬がたくさん保護されるという。

犬を猟に使えない期間、彼らの世話を疎ましく思う狩猟家が犬を捨ててしまうのだ。なかには、山のなかで木に鎖につながれ、逃げることを防ぐために両手を銃で撃たれた犬さえいるらしい。見かねた地元の人たちがご飯をあげたり、引き取ったりしているらしいが、それにも限界がある。

ボランティア団体の方の静かでありながらも怒りの込められた話に、私は言葉も出なかった。

犬も猫も好きだ。たまにしか食べられないが“あぶらかす”も好きだ。私は、せめて、好きなものが背負うものに敏感でいたいと思う。








カテゴリー:リレー・エッセイ