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4.5 1年の重みと軽さ 岡野八代
2012.04.13 Fri
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.田丸さんのエッセーに引き続き、同じ本から始めて恐縮だが、昨年3月11日を海外で経験し(テレビニュースにくぎ付けだった)、関西でその後を過ごしているわたしにとって、『3.11 に問われて--ひとびとの経験をめぐる考察』は、タイトルからしてぐっと身に迫るものがあった。というのも、今回の大震災について、関西在住ということもあってか(しかもわたしは、阪神淡路大震災のときも海外留学中で、やはりテレビニュースと新聞のなかでしか、大震災を経験していない)、まだじつは、なにが起こったのか、人々がどのような状況に巻き込まれているのか、体感できなていない。その土地を訪れ、人々と触れあう、という方法もあるだろうが、なんだかそんなことで知った気持ちになるようなことも躊躇われる。
なので、わたしにとっては、本を通じて、人々の経験を少しづつ体得していくしかない。
だから、本書のタイトルがいうように、自分自身が大震災とその後の原発事故によって、これから日本社会でどのように生きていくのかを問われているのだと思う。
本書は、「津波の現場から」と「原発避難の現場から」と二つのルポにより現場の声を伝えながら、やはり津波と原発に関する執筆者が語りあう座談会、そして、各執筆者のエッセイが続く。
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イギリスで大震災のニュースを聞いたという苅谷剛彦さんはそこで、寺田寅彦の『天災と国防』を引用しながら、「忘れる」ということと「学ぶ」ということの緊張関係を論じている。大きな被害・悲惨な出来事にあった者にとっては、あえて忘れるという作業を通じて、なにがなんでも一歩前に踏み出さなければならない時がある。しかし、本震災後、最も復旧が早かった「学校」という現場に注目することで、それでもなお、日本人は急ぎすぎてはいるのではないか、と苅谷さんは問いかける。とくに若者たちにとっての時間はとても大切であり、彼女たち・かれらが日常に復帰し、未来を展望することはとても大切なことであるには違いない。だから、彼女たちが前にすすための場所を、「わたしたち」は、しっかりと立て直さないといけない。だが、と苅谷さんの論考を読みながら考える。おそらく、この1年、震災・原発被害にあった人たちや、田丸さんのように日常を乱され、凝縮した重い時間を生きてきた人たちと、わたしのように、ときどきは思いをはせるものの、この1年はその前の年とさほど変わらない重みしかもたない者とを、「わたしたち」とひとくくりにしてはならないのだ。この一年の重みを感じられないわたしのようなものこそ、過去を問い続け、そこに縛られ続けなければならないのではないだろうか。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.「慰安婦」問題、靖国問題でも活発な発言をされてきた高橋哲哉さんは、この間、福島について、数多くの著作を公刊しながら、やはり、「わたしたち」とは誰かを問うているように思う。高橋さんによれば、「わたしたち」の生活が、戦後の日本社会でも--戦前と変わらず、なのだ--「誰か」の犠牲のうえに成り立っている、からだ。現在の「誰か」とは、沖縄の軍事基や福島をはじめ原発立地を生きる人である。
政権交代後の二代、鳩山、菅政権が、それぞれ沖縄と福島の問題に正面衝突し、崩壊していったのは、はたして偶然だったのだろうか。そこには、生半可な「政権交代」ぐらいではビクともしない戦後日本の国家システムがその露頭を表し、私たち(それはだれのことだろう?)の生活が、だれかの犠牲から利益を上げるメカニズムのなかに組み込まれていることを、痛烈に思い知らせてくれたように思うのだ(4頁)。
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落合恵子さんとの対談、『原発の「犠牲」を誰が決めるのか』では、「9割のために1割が死んでいくのは、「尊い犠牲」だ」という久間元防衛大臣の言葉がひかれている。そう、誰が犠牲者になるのかを決めるのは、犠牲者にはならないと信じて疑わない「わたしたち」であり、土地を奪われ、その土地への想いや思い出を根こそぎにされるような経験をしている「誰か」ではないのだ。アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.そして、忘れたいほどの重みを感じずにこの1年を過ごした者は、あたかも原発事故などなかったように忘却し、逆に忘れたくても忘れられない経験をしてしまった人たちは、その社会の忘却のなかで、その重みを耐え続けるのかもしれない。年月の経過の重みとは、自分や家族が生きてきた空間を奪われることで過去を奪われ、この場所に生きていく・生きていけるという未来の展望を奪われた者たちが、ある時点に留まり続けることを余儀なくされることによって、生じてくるのかもしれない。そして、彼女たち・かれらから過去も未来を奪うのは、「わたしたち」でもあるのだ。高橋さんと高史明さんとの対談『いのちと責任』を読みながら、逃れようのない罪のなかで生きている自分を問い正される。
10年ほど前から、教育基本法改悪や日の丸・君が代問題をめぐって、日本の「地金」があらわになってきた、と良心の自由・思想信条の自由を踏みにじる政治のあり方を批判してきた高橋さんだが、いまやその地金は、どんな細工も施されることなく、臆面もなく、表面化してきた。メディアが取り上げることのない小さな活動のなかで、生存権や思想信条の自由といったわたしたちの尊厳の核にあるものを守ろうとしている「誰か」がいる一方で、魑魅魍魎たちが堂々と跋扈しているのが、日本の政治社会となってしまったかのようだ。
非常に面妖な話ですが、最近「地下式原発議連」が発足しました。地上にあると大事故の際に大変なので、列島の地下に原発を造ったらどうかと考え始めた議員たちがいる。会長は「たちあがれ日本」代表の平沼赳夫氏。顧問には鳩山由紀夫、羽田孜、森喜朗、安倍信三といった歴代総理経験者や谷垣禎一自民党総裁らが名を連ねている。岸内閣から安倍内閣まで、日本政府が「核兵器保有も必ずしも憲法違反ではない」としてきたことが想起されます。ここまで執念深い動きが政界のなかに魑魅魍魎のごとく存在していることに注意しなければいけない。本当に、広島・長崎から何も学んでいない(111頁)。
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