2015.08.13 Thu
わたしの著書『<おんな>の思想』の韓国語訳が刊行されました。それに翻訳者の求めに応じて韓国語版序文をつけました。これがその原文です。
また翻訳者チョウ・スンミさんの長文の「解説」の、日本語訳をご提供いただきました。そちらも追ってご紹介します。
その前に『女嫌い ニッポンのミソジニー』も韓国語に翻訳されました。韓国語版題名は『女性嫌悪を嫌悪する』という意味だとか。
その刊行がきっかけに、韓国内で「ミソジニー」論議が沸騰。「フェミニズムがキライだ」という男性からのバッシングに対して、若い女性たちが、「私はシャルリ」ならぬ「私はフェミニストです」と名のって反撃に転じたのだとか。韓国女性たちによる韓国版「ミソジニー」論集も刊行されたそうです。こちらがその本。おしゃれな装丁です。
序文タイトルの「#私はフェミニストです」は、ネット上のアクションに使われたハッシュタグを示しています。
日本では「怒れる女子会」が。もはや若い女性は日本でも韓国でも、怒りを表現することを恐れていないようです。
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韓国語版序文「#私はフェミニストです」
フェミニズムということばが、日本においてほど、韓国でスティグマ(負の烙印)を帯びているかどうか知らないが、フェミニズムとはたしかに女がつくった思想だった。そしてわたしはそれに、深く影響を受けてきた。日本語版に書いたとおり、文字どおり、「わたしの血となり、肉となったことばたち」だったのだ。
自分のことばが誰かからの借りものであることを恥じる必要はない。自分ひとりで思いついたことなど、限られている。わたしより前に、わたし以外の女たちが、同じような現実に直面して悪戦苦闘してきた。そこから紡がれたことばを受け取って、わたしは思想上の人格形成をしてきた。わたしは彼女たちにわたしの思想の来歴と出自を負っているし、そのことに感謝している。だからわたしは、どんなに評判が悪かろうとも、フェミニストの看板を下ろさないのだ。
本書には5人の日本の女性(*1)と6人の外国人の思想家(*2)が登場する。なぜこの11人を選んだかは、本書に書いたとおりだ。6人の外国の思想家は有名なひとたちばかりだから、韓国の読者にもなじみがあるだろう。
(*1)森崎和江、石牟礼道子、田中美津、富岡多恵子、水田宗子
(*2)ミシェル・フーコー、エドワード・サイード、イヴ・セジウィック、ジョーン・スコット、ガヤトリ・スピヴァク、ジュディス・バトラー
この6人の論者を見れば、ジェンダーとセクシュアリティについての思想がどのように切り開かれてきたかが概観できる。国籍からいえば、アメリカが3人(スコット、セジウィック、バトラー)、フランスが1人(フーコー)、パレスチナが1人(サイード)、インドが1人(スピヴァク)。フーコーを除けば、共通点は英語圏で情報発信していることだ。他の言語を使えないわたし自身の語学力の限界があらわれているともいえるが、世界共通語となった英語で発信しなければ、世界にプレゼンスがなくなった時代には、英語を介する情報が世界の情報を網羅しているともいえる。それだけでなく、サイードやスピヴァクなど、ポストコロニアル知識人たちをふところ深く迎え入れて、自らの資源としていく英語圏のアカデミアの戦略もある。
国際社会で代表的な知識人ともいえる彼らにくらべれば、5人の日本女性は、知名度が低いだろう。日本の若い読者にもあまり知られていないし、ましてや韓国の読者にはまったく未知のひとびとかもしれない。だが、ひとは母語で考える。わたしには、自分と同じ社会で生まれ育ち、自分と同じ女の問題と格闘した、自分より少し前を行く女性たちのことばが肺腑に響いた。そしてわたしがそのことばにふかく感応したように、わたしという読み手を通じて、わたしから後に来る女性たちにも、彼女たちのことばを手渡したいと思った。そして事実、本書を読んだ若い読者からは、「知らなかった、新鮮だった」という読後感を受け取ったのだ。
おそらく韓国には韓国のことばで語られたおんなの思想があるだろう。中国には中国語で語られた、インドにはヒンディー語で語られた、それぞれのおんなの思想があることだろう。わたしたちはそれを知らないだけにすぎない。ことばと思想は男の独占物ではない。女は女の経験を言語化することで思想化してきたのだ。男仕立ての思想だけを、「思想」の名に値すると思うのは、狭い偏見にすぎない。だが、日本語でもそうだったように、思想のことばといえば男の使う言語しかなかったところでは、女が自分の経験を語るには、おんなは母語そのものを探さなければならなかった。どんな言語にもそんなおんなの格闘のあとがあるだろう。そしてフェミニズムとは、その格闘の遺産なのだ。
日本と同じように韓国も性差別の強い社会だ。日本にはない徴兵制が敷かれて、男子のみが「殺人マシーン」になるための訓練を受ける。「男らしさの学校」である軍隊を通じて、韓国男性の「軍事的男性性」が構築されるという研究は、韓国のジェンダー研究者のあいだにあまたある。そんな韓国で、フランスの「私はシャルリ」をまねた「私はフェミニスト」というパフォーマンスが若い女性のあいだに拡がっていると聞いた。その情報をもたらしてくれた韓国女性によると以下のとおり。
ISに合流するためトルコで行方不明になった韓国の高校生が、自分のツイッターに「自分はフェミニストが嫌いでISが好きだ。今は男性が差別される時代だ」と書いた。その直後、有名な男性コラムニストが「ISよりフェミニズムが問題だ」とコラムに書いて論争になり、今まであまりフェミニズム運動に関心がなかった若い女性たちが中心となり、ツイッターでハッシュタグ「#私はフェミニストです」をつけて、「私はフェミニスト宣言運動」を広げるようになったという。彼女の分析によれば、「ここ数年、韓国の極右サイト(匿名ネット掲示板)の「イルベ」で「軍隊にも行かないで男に(経済的に)依存しようとする女」というフレームでミソジニーやバックラシューの発言がとても増えたのですが、その反面、若い女性たちによる自覚や反撃も出てくるようになった」のだとのこと。
リブの頃、あぐらをかき、たばこを吸い、乱暴な言葉を使う女たちに、「売女(ばいた)」「あばずれ」という非難がなげつけられた。あまつさえ「ブスのヒステリー」というレッテルまで貼られた。それに応じて、リブの女たちはこう開き直ったものだ・・・「そうよ、わたしはビッチ」。そう自らなのって「魔女コンサート」まで開いた。男に従わないと宣言するために、男を怒らせるために、彼女たちはそう自称した。
男社会は、男の管理に従わず、女の指定席におとなしくおさまらない女を、差別し、攻撃する。「フェミニスト」は男に嫌われる。だとすれば冒頭に書いたとおり、日本だけでなく、韓国でも「フェミニスト」はスティグマを負ったことばだとわかるが、そのことばをあえて名のる韓国の若い女性たちは、今や男を怒らせることに怯えていない。これまでだって男に嫌われたくない、男に愛されたい女たちは、「わたしはフェミニストではありません…」と遠慮がちに言ってきたものだ。だが、自分のキライな男、自分が愛せない男、自分が軽蔑している男からまで愛される必要は、女にはない。真に尊敬できる男と、敬意を持った対等な関係をつくればよいだけだ。「私はフェミニストです」と名のることは、女を尊重できる男と尊重できない男とを、判別するリトマス試験紙になるだろう。
「慰安婦」問題や竹島=独島問題をめぐって、日韓関係はこれまでにないほど悪化している。そんな政治を、日本の女たちが許しているわけではない。このところ日本でも「もうたくさん、オッサン政治」と唱える「怒れる大女子会」が各地に波及している。若い女性がベビーカーを押してそんな集会にやってくる。うらみやそねみは劣位者の感情。怒りは、対等な相手へと向けられた、正当な権利主張の要求だ。「怒りとは女性にもっとも禁じられた感情だった」と、フェミニスト文学批評家のキャロライン・ハイルブランは書く。だが、韓国でも日本でも、もう黙っていられない、と声を挙げ始めた若い女性たちのうねりが起きているようだ。
最後に、本書の構成が英語中心主義anglo-centirismだという批判を受けるかもしれないことについて、一言付け加えておこう。わたしたちはグローバル時代に生きている。それを媒介しているのが翻訳である。そして英語圏にはもっとも多くの言語からの翻訳が蓄積されている。英語を介すれば、ありとあらゆる言語圏のひとびとの智恵や思想を学ぶことができる。大航海時代から始まった英語覇権主義のおかげで、残念ながら英語が世界語になってしまった現実を否定することはできない。そして英語化の影響力は、日本よりも韓国がもっと強いだろう。そのなかで生まれ育ったわたしたちは、一歩も外国へ出たことのないアジア人であっても、ポストコロニアルな存在だといえる。
そのポストコロニアル知識人の代表的な存在であるガヤトリ・スピヴァクは、「ジェンダーという概念はヨーロッパ語のもの。それがあなたたちに何の関係があるのか?」というあるフランス女性の問いに答えて、こう言い返した。
「それがどこの国の生まれであれ、使えるものは使う、それがわたしたちの流儀です」と。
その点で、わたしたちは翻訳に大きく依存している。バトラーの章で論じたように、日本にバトラーを紹介した翻訳者が竹村和子さんであったことは、日本の読者にとってもバトラー自身にとっても幸運だった。同じように本書の翻訳者にチョウ・スンミさんというすぐれた翻訳者でありフェミニストでもある韓国女性を得たことは、韓国の読者にとっても、わたし自身にとっても幸運なことだろう。なぜならことばは、共感を通じて伝わるからである。
思想が外国生まれであること、ことばが借りものであることを怖れる必要はない。わたしたちは前の世代のひとびとから受け継いだことばで、自己を形成し、やがてそれを次の世代に手渡していくのだから。そしてわたしの血となり肉となったことばたちがどこから来たかをわたしが深く自覚しているからこそ、「私はフェミニストです」とわたしは言いつづけるだろう。
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