京の年の瀬はなにかと忙しい。ひととおり家の掃除や片づけを終え、おせち料理の材料を求めて錦市場や四条「タベルト」、三条「三嶋亭」や「八百一」へ買いに走る。数の子に鯛の子に海老、丹波産の黒豆、栗、蒲鉾、だし巻、昆布〆。牛肉にハム。お煮染め用の京野菜の数々。近くのお米屋さんで予約した丸餅も。八瀬で畑を耕す友人から、とれたての野菜をいただき、早速使わせてもらう。

30数年前に亡くなったお姑さんから習った京都のおせち料理を毎年、手づくりで用意する。娘はクックパッドを見ながら手分けして。手伝う5歳の孫もかいがいしく、フライパンに半紙を敷き、ごまめを炒って田づくりをつくり、栗きんとんを茶巾絞りにまとめる。大根と金時人参と蕪と市田柿の紅白なます、野菜たっぷりのお煮染めに「うん、おいしい」と一人前の味見役だ。白味噌仕立ての京風お雑煮に大根と人参とかしら芋を下茹でしておく。大晦日、できた品々をお重に詰め、お飾りをして、あとはお正月を待つばかり。
 


 元日は平安神宮へ初詣にゆく。あたたかく、おだやかなお正月になった。去年はお参りの帰りに雪が舞い、60年ぶりの大雪に見舞われ、道も凍って滑らぬように歩いたっけ。

 2日は八坂神社から清水寺へ。茶わん坂から五条坂を下り、六波羅のあたりから鴨川に出る。河原をジョギングする人を追い抜き、孫娘は走りに走って四条大橋まで。とうとうお参りの行きも帰りも、御所の近くの家まで歩いて帰った。

 「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ 崇徳院」は百人一首の好きな札。帰りの道すがら東山安井あたりで崇徳廟の石柱に出会う。保元の乱(1156年)を起こし、讃岐へ流された崇徳天皇の霊を祀る場所。あたりに何となく霊気が漂う。父・鳥羽天皇と母・中宮璋子の子として生まれ、実は白川法皇と璋子の子と噂され、鳥羽上皇に疎まれたことが保元の乱の遠因にもなったという。
 あるいは鳥羽上皇の北面の武士・佐藤義清は17歳年上の待賢門院璋子に恋慕し、後に出家して吉野の奥に西行庵を編んだという。京都・花園にある法金剛院所蔵の待賢門院像はハッと息をのむほどに艶かしい。現代に生まれ変われば、どんな魅力的な女性になったかしらと思う。

 娘が通った小学校は待賢小学校。平安京の東門・待賢門に由来するらしい。京都所司代の跡でもある。20年ほど前、創立128年の歴史を閉じて廃校になってしまったけれど。

 崇徳廟の近くに安井金比羅宮がある。崇徳上皇も祭神の一人。縁切りと縁結びの神社とされ、境内に飾られた絵馬に「あの男と早く別れられますように」と願い文が書かれていた。横を通りかかったおじさんが、「ここがキンピラ宮やで」と連れの女性に説明しているのを耳にして、ホントびっくり。「キンピラごぼうじゃないんだから」と娘と二人、思わずプッと吹き出してしまった。


 せっかくのお正月、大阪へ行きたいなあと思い立ち、梅田のグランフロント北館「ボーネルンドあそびの世界キドキド」へ出かける。久しぶりの大阪はずいぶん変わってしまって、まるでおのぼりさんみたいにあちこち迷ってたどりついた。
 コーナーには世界のおもちゃがいっぱい。孫は裸足になって走り回り、トランポリン、ロッククライミング、立体組立おもちゃのマグフォーマーに夢中。たっぷり2時間、遊んで過ごした。

 そこから歩いて5分の大阪スカイビルへ行ってみる。40階建て173mの連結超高層ビルの空中庭園展望台から、ぐるっと360度、大阪の街を見渡す。はるか南に地上300mの日本一高いビル「あべのハルカス」も見えた。

 1950年代はじめ、大阪・天満に引っ越してきた。それまでは大阪南部の淡輪で今はゴルフ場になっている牧場で、のびのびと育った。まだ20代で若かった母は、そんな田舎から毎週、私をつれ、南海電車で難波・千日前のスバル座へ洋画を見に出かけた。ジョセフ・コットンとジョーン・フォンテーンの「旅愁」、ウィリアム・ホールデンとジェニファー・ジョーンズの「慕情」など、なんだかよくわからないままにスクリーンを見ていた記憶がある。

 都会に越してきて人の多さにびっくりした。だが戦争が終わってまだ数年、都会の暮らしはまだまだ貧しかった。天満橋駅の軒下で靴磨きの少年がせっせと働き、淀川の橋の下で暮らす母子が共同便所へ水を汲みにきていた。近くのOKタクシーの車はすべてオート三輪。小学校の朝礼で整列してシラミ退治のDDTを頭から振りかけられ、回虫駆除の苦い、苦い「マクリ」(海人草)を飲まされる日々だった。 みんなが貧しかった時代、でも子ども心に、なんか明るい希望があったような気がする。

 あれから60数年。ファシズムへの道を予感させるような新年。軍靴の音も近いのではと夏の参院選の行方が気がかりだ。歴史は繰り返すというが、戦争への道は断じて繰り返してはいけない。

初唐の詩人・劉延芝が白頭を悲しむ翁に代わって詠んだという漢詩の一節。  年々歳々花相ぃ似たり  年々歳々人同じからず 私もまた、そんな歳になったのかなと思う。

もし次の七まわり目のお正月も元気で迎えられたら、その時、みんな生きていてよかったと思える時代にするためにも、「ノー」と言うべき時は、はっきりと、そう言おうと、のんびりお正月を楽しみつつ、ささやかな覚悟を決めた、年の初めとなった。