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「悪女」なんかじゃないよね 荒木菜穂
2009.07.23 Thu
前回の堀さんのお話の中から、「男の世界」であるロックの世界から排除された女性ということに関連して。最近、インターネットで音楽の情報を見ることが多いのですが、ミュージシャンの妻や恋人が、「悪女」として叩かれているのをよく目にします。
陰でダンナを支える妻、ではなく、彼女自身も才能があり、少しでも夫の前に出てくるような妻は、なんか知らんけど、叩かれる。有名どころではポール・マッカートニーの前妻のヘザーとか、オノ・ヨーコとか。少し前までは私は、ロック聴く際はあえてフェミスイッチOFF(←しんどくなるので)にしてたということもありますが、このような「妻」への攻撃を、たいして何とも思っていませんでした。気づくきっかけは、女性同士で音楽の話題で交流するとある掲示板にて、「なぜ男性ロックファンが、ミュージシャンの妻をあんなに叩くのかわからない」という憤りの声を目にしたことでした。才能ある女性アーティストならたくさんいるし、彼女らの中にも伝統的な性規範の観点から批判される人はいるでしょう。でも、彼女らはあくまで「女カテゴリー」での才能として扱われるのに対し(もちろん例外もありますが)、「妻」たちが「悪女」とされる大きな理由の一つは、やっぱり男同士の固い絆、ホモソーシャルの「聖域」を侵す存在だからかな、とこういうやりとりを見てて痛感しました。まあ、彼女たちにも多少問題があったのかどうかはわからないけど、たぶんそれとは別の次元ではたらくそういう力があったのではないかと。
こんな話は昔からあって、適当に思いつくのだと、19世紀の音楽家フランツ・リストの伝記映画『リスト・マニア』では、妻のマリーは暴露本を書きリストを貶める悪女、愛人のキャロラインは、彼の才能を搾取し堕落させる猛女として描かれています。でも伝記を読むかぎり、マリーは、リストの奔放な恋愛に苦められる一方、男性名で評論を書くなど、才能溢れる女性であったとのことです。また、あるリストの伝記では、キャロラインもまたリストの創作を助け自らも作曲を行なうなど才能に溢れる女性であったことに触れられていました。
たとえば、女性の権利を求めた中世近世のヨーロッパの女性たちは、ジェンダーの領域を侵す存在として、「魔女」とされ、苦しめられてきました。大正時代の青鞜の女性たちは、男性の聖域であるはずの酒場で「五色の酒を飲んだ」として、揶揄&非難されました。
「女が女の物語を語る」って、なぜ「女が」にこだわるのかと批判の声が出たり反論があったりいろいろ議論の続くとこですが、「非」男性目線を最も作り「やすい」のは、やはり「非」男性ではないかと思います。「非」男性の一つの立場としての「女性」が他の女性をどのように表現するか。究極的には「女」である必要もなくなるんだろうけど、現時点では意味のないことでは「ない」と思います。それは時空を超えた女性同士の交流でもあり、男性目線での女性像の再解釈であり再評価ともなるのではと。女性史やフェミニズム批評などのお仕事は、おそらくそのようなものなのではと思います。
また、日常的なレベルであっても、先ほどのネット上でのロックファン女性の交流の場で、男性ファンによる「妻」叩きのおかしさ(&いかに自分が男目線を内面化していたかということ)に気づき、その思いを共有できたこともまた、私にとっては同種の出来事でした(文句言うだけの傷の舐めあいCRで終わるのは好きじゃないけど)。
現代においても、いわゆるフェミニズムへのバックラッシュには、伝統的なジェンダーの境界を踏み越え、安全な男性領域を侵犯する存在への、いわば現代の魔女狩りのような側面があると思います(もちろんそれ以外の要素のほうがアホほど多いですけど)。バッシングしてくる相手を批判したり否定したりも必要なことだけど、それだけではしんどくなってしまう。強制的な連帯も意識の共有はまっぴらだけど、その一方で、自分たちが、客体として(時に悪意を持って)定義されてしまう「ジェンダーの伝統」がある。
それに抵抗するには、抵抗したい人たちが、語り合いお互いを肯定しあう(でも納得いかなきゃ肯定しなきゃいいと思う)、そんなゆるやかなポジティブなコミュニケーションっていうのも、女が女を語る一つのやり方なんじゃないかな、なんて思います。「悪女」としてバックラッシュを受ける(かもしれない)、様々な女たちの活動を知り、気が合えば仲間になったり支えたり。なんて。甘いかな(笑)。
【参考】
『リストマニア』(1976・監督ケン・ラッセル)は、女性の描き方はともかく、大好きなロジャー・ダルトリー(TheWhoのボーカル)が主演なので、お気に入りの映画ではあります。でも残念ながら廃盤。中古VHSならたまに見かけます。その妻マリー・ダグーに関する伝記なら坂本千代著『マリー・ダグー―19世紀フランス 伯爵夫人の孤独と熱情』(2005)、青鞜についての入門的な本は米田佐代子・池田恵美子編『『青鞜』を学ぶ人のために』(1999)など。ホモソーシャルに関しては、先日お亡くなりになられたイヴ・K. セジウィック著,上原 早苗・亀沢 美由紀『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(1985=2001)。
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