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血の繋がらない親子関係 緑川
2009.09.03 Thu
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<p> 中国映画の親子関係について書かれた藤田さんのエッセイを引き継いで、中国社会にも親子関係にもくわしくない私は、「血の繋がらない親子関係」という最近個人的に気になるテーマに沿って、ふたつの作品を紹介したい。</p>
<p>◆ 宇仁田ゆみ著『うさぎドロップ』</p>
<p> ひとつめの作品は、『月刊フィール・ヤング』で絶賛連載中、単行本は6巻まで発売中のコミック『うさぎドロップ』だ。独身で会社員のダイキチ(30)は、ある日祖父の葬式のために帰省し、祖父のかくし子・りん(6)と出会う。<!–more–>唯一の肉親を失ったりんはほとんど極限状態なのに、親族たちは彼女を邪魔者扱いして押し付け合うものだから、ダイキチは勢いで引き取ることにしてしまう。こうして父親業初心者のダイキチと、子ども業6年目のりんの、手探り状態の家族生活が始まる。<br class="clearall" /><br /> この作品を連載開始号の雑誌で読んで以来、次号発売日を毎月心待ちにするほどに、第1話から物語の展開が早くて引き込まれてしまう。自称「女子どもは苦手」なダイキチだけれども、つねにりんの視点に立ってりんのことを考えて、親業先輩の家族や周囲の人々に学びながら、戸惑いながらも彼女の親になってゆくプロセスが丁寧に描かれる。また、りんも「おじいちゃん」と呼んでいた実の父の存在を大切にしながら、「ダイキチ」という親を信頼して、ときに子どもとして親子初心者の彼をリードしながら、彼との間の親子関係を築いてゆく。ほとんどありえない設定のはずなのに、こうした過程や心情がリアルで、血縁関係がなくても(厳密には甥と伯母だが)親子関係はできるということが、奇妙な説得力をもって描かれる。</p>
<p> この作品で注目したいのが、主にダイキチ目線でおこなわれる、りんの実母の描写だ。彼はあくまでもりんの視点に立とうとするから、「実母はりんを愛していたのか?」「事情があって引き取りに来られないだけなのか?」「でも、母が実の子を引き取れない事情ってなんだ?」と、疑問がぐるぐるするばかりで、「現代日本社会で、女がひとりで働きながら不倫の子どもを育ててゆく」という現実の厳しさにはなかなか思い至らない。もうおじいちゃんであるにも関わらず、若い女に手を出して妊娠させ、あげく産ませてしまったおじいちゃんこそが1番悪いやつだと、私は物語の始めから決めてかかっている。けれどもダイキチは、あくまでも常識的であり、あくまでもりんの味方だ。実母に関する数少ない事実の欠片をつみかさねて、母の像にたどりつこうとする彼の思考プロセスは、常識にのっとっているからこそリアリティがあってどきどきする。りんの実母が、これからどんな風に物語に関わってくるのか、次号も楽しみでまちどおしい。</p>
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<p>◆ ディアブロ・コディ脚本、ジェイソン・ライトマン監督『JUNO(ジュノ)』</p>
<p> ふたつめは、「産むけど育てない」女性側の映像作品『ジュノ』を紹介しよう。こちらは現代アメリカを背景に物語が展開する。ちょっと「個性的」だけどフツーの女子高生ジュノ(16)は、バンド仲間で同級生のポーリーと、興味本位でやってみた初めてのセックスで妊娠してしまう。当然のように親に内緒で中絶しにゆくが、病院で怖くなって逃げてきてしまい、親友リアに相談して出した結論は「里子に出す」。フリーペーパーで里子募集広告を探し、収入もあって信頼できそうな夫婦ヴァネッサとマークを里親に選び、両親も説得して無事契約書を交わし、あとは赤ちゃんが出てくるのを待つだけ。「君の好きにしたらいいよ」という一見無責任な反応をしてしまうポーリーを尻目に、お腹はどんどん大きくなってゆき、ジュノは学校に検診に里親との交流にと忙しい日々を送るが、子どもが育つにつれて里親やジュノ自身にも心境の変化が…<br class="clearall" /><br /> 里親として母になる準備を進めるヴァネッサは、辟易するマークを尻目に、子ども部屋の準備をしてみたりとマタニティブルーのようにそわそわし始める。一方、産みの母となるジュノが鬱っぽくもならず、基本的には淡々と出産に向けた作業をこなしてゆくのは、「母になる覚悟」や「準備」をしなくて済むからなのかともおもえた。ふたりの対比が、「母になること」と「産むこと」の違いを象徴しているようでおもしろい。他方、父親になりきれない男性陣の「だらしない」描写には、批判も多いだろう。けれども、『うさぎドロップ』のダイキチが「学習」して親になっていったように、『ジュノ』のヴァネッサが「覚悟」を決めて「準備」をすることで親になろうとしたように、覚悟も準備も学習もない男性陣が「父親」になれないのは当然かもしれない。そして、その意味ではジュノもまた「母親」にはなれないし、本作品はそういうことの是非を問うものではないだろう。</p>
<p> ふたつの作品を通してなんとなく私が感じることは、セックスして「自然に」生物学的親になることと、この社会の中で実際に子どもを育てて親になることは、決定的に違うということだ。けれども実際には、このふたつのどちらかの次元だけで親になることなどほとんど選べないのが、日本社会に生きる女性の現実だろう。育児ができる状況にないなら中絶をする、虐待しそうでも産んだからには育てる、子どもが欲しいけどできないから不妊治療する、といった選択こそが可能であり、育てられないけどできたからには産んでみるとか、虐待しそうなので誰かにあずけてみるとか、子どもが欲しいから養子をもらうといった選択は、ほとんど不可能な気がする。これら選択肢のうち、どれが正しくてどれが間違っているというわけでは決してない。それでも、不可能にも見えるこうした選択肢のひとつひとつが、リアリティをもって物語の中で表現されてゆくことに、この途方もない生を生き抜く私は、勇気づけられるのだ。</p>
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<p><a href="http://wan.or.jp/book/?p=78" target="_blank">次回「母と娘のものがたり」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから</a></p>
カテゴリー:リレー・エッセイ