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京都教育大卒業生より、8.7緊急学習会に参加して きのー
2011.08.14 Sun
私はおよそ10年ほど以前の京都教育大学の卒業生です。現在は京都を離れていますが、8.7緊急学習会にこれは何としても行かねばと参加しました。そもそもの2009年の事件が発覚した当時、本当にショックで憤りをおぼえ、同時に卒業してだいぶ経っていたとはいえ、自分がそのようなことが起こる土壌にいたということ、それを防げなかった責任のようなものにゾッとしました。
というのは、私は体育科ではありませんでしたが、体育会系クラブに所属しており、体育会系のノリを知っているからです。また、同じ部に体育科の女子学生が数名いて、彼女たちは体育科コンパのたびに、大量にお酒を飲まなくてはならないので、憂鬱そうに、戦場にでも行くかのような深刻さで出かけていました。キスをさせられることもあると言っていて、嫌がる人は本当に嫌がるという話でした。そして、それ以上のことが当時からあったのかもしれないし、2009年の事件のときにたまたまエスカレートしたのかもしれないし、どちらにしても安全ではない飲み会の場が受け継がれていたわけです。
私の在学時代の京都教育大学ではジェンダー論の授業があり、私は性のダブルスタンダードや男性中心の世の中で女性が経済的にも性的にも搾取されていることなど多くを知ることで意識が変わり、フェミニズムと出会う基礎ができました。なかでも授業で聞いた地下鉄御堂筋事件には衝撃を受け、性暴力の卑劣さと周囲の人が傍観したという経緯に耐えられないものを感じて自分が崩壊してしまうようなダメージを受けたのですが、「性暴力を許さない女の会」が結成され被害者を支えたことを知り、被害者の味方となる人たちがいたことに安堵し、救われたような気持ちがしました。
そのように在学中に性暴力への問題意識を強め、支援グループなどの活動の重要性を知ったのですが、体育会系の無茶な飲み方やそれを維持させるマッチョさの問題を突き詰めて考えることはできていなかったため、体育会系の場に顕著なジェンダー規範があるとして、それを変えていくような行動にまでは至りませんでした。そして教育大自体も、無謀な飲み方を楽しいものとする文化や飲酒の強要その他強制的な雰囲気を問題化し再考を促す教育はできてこなかったのだと思います。
2009年に事件の報道があった後、私は専用の問い合わせ窓口に電話して大学の対応について可能な範囲で確認したりしました。しかし学外で開かれた緊急集会には都合で行けなかったので、情報収集にも限界があり、この事件に心を痛め、できることをしていこうとする人たちとつながるきっかけが得られませんでした。被害者となった女子学生のことを探すのではなく、性暴力に抗議し、彼女が悪いのではないということを世に伝えること、レイプ神話を批判し二次被害を防ぐことなどで彼女の名誉を守り、寄り添う人たちが確実にいるというメッセージを発信していくことが重要です。そういうわけで今回の学習会に参加できたことに、まずは胸をなで下ろしています。
やはり、このような場に出向かないとわからないことがあると痛感しました。今回の判決では、コンパの後に事件が起こった5階に女子学生が自ら上がったことから「酩酊していたとまではいえない」とされ、それにより性行為への「明確な同意があったというべき」とし、「集団準強姦事件であるということはできない」と結論づけているということです。よって京都教育大が加害者とされる学生たちを無期停学とした処分は「無効」とされました。
新聞報道でも、そもそも集団準強姦がなかったかのような印象を与える記事が出ていることがわかりました。あったことがなかったことにされかねない危機的な状況にあるということが、学習会に参加することで確認できました。
養父弁護士がまとめられた判決の問題点は非常にわかりやすく、「女性は嘘をつく/男性が陥れられる」という歪んだ考えが見て取れるということです。現に被害者とされる女子学生の身に起こったことは被害でなかったと覆され、男子学生の供述の信用性は疑われなかったのです。しかしこれは何重にもおかしいことであり、まず女子学生は裁判で証言の機会がありませんでした。男子学生の言い分のみが一方的に尊重され、それを元に事件の概要が構成されています。さらにおかしいのは、事件発覚後、当事者間で示談が成立し男子学生たちは非を認めて女子学生に謝罪したという事実が、判決にはまったく取りあげられていないことです。
上級生から呼ばれて「自ら5階へ上がる」などなんの不思議なことではありません。上階へ行ったからといって、そこで集団による性行為を受ける積極的な意志など、常識的に考えるとあるはずがありません。性暴力の加害者が実際は顔見知りである確率が非常に高いことは研究上明らかになっていますが、性暴力に遭う前に加害者と会っていたからといって、あるいは事件の現場となった場所に同行していたからといって、性行為に合意しているわけではないというのは女性からすれば当たり前のことです。
しかし、このような見当違いの判決が出るとは、いったい裁判官はどんなセックスをしてきたのでしょうか。裁判官の女性観の底の浅さが知れます。また、原告である男子学生が自分に不利になるようなことを言うとは考えられません。性行為の際の女子学生の態度を「同意」ととれるよう証言したでしょう。「同意」認定のいい加減さに唖然としてしまいます。
性暴力事件では、泣き叫び助けを求めるといったわかりやすい「抵抗」をすることすら、加害者に囲まれた被害当事者にはさらなる暴力を受ける危険性があるのみならず、弱い立場に追い込まれたという屈辱を生じさせる面があります。被害を最小限にとどめるには暴力に耐えるしかないという八方ふさがりの状況は性暴力研究において解明されてきた側面でもあります。
ところで、性暴力事件に対するフェミニズムの抗議行動は、大げさだと思われたり、本当にそんな深刻な出来事だったのかと疑われたり、実は被害者も嫌ではなかったのではないかというレイプ神話に支配された疑念が突きつけられることがあります。フェミニストが勝手に騒いでいるだけでは、とも。
しかし、仮に被害者が100%拒絶していたわけではなく、そこまで恐怖の中での出来事でなかったとしても、それがどうにか彼女自身の中で折り合いをつけることができるものなら「被害」を訴え出なかったでしょう。性暴力を受けたと公然と告発することは好奇の目で見られる危険性も伴い、惨めな思いにさせられがちで、誹謗中傷される場合もあり、何の得にもならないのです。刑事で争い続けるのも被害者にとっては過度の負担であり、示談になることがしばしばです。
そのような現実に鑑み、加害者ではなく被害者にとっての現実認識に焦点を当てるべきであり、第三者である私たちは被害者にとっての事実を措定する際、あり得た可能性として、究極的に深刻な事態に追い込まれていたという可能性までの幅を持って考えないといけないわけです。その意味で、あらためて、地裁判決が加害者目線の論理でしかないことがわかります。
今回の集会は、女性学や教育関係者の方、女性運動系のグループの方だけでなく、法律関係に専門的知識を持っているようにみえる男性が参加されていたような印象でした。私は京都教育大学の同級生である友人と参加しましたが、友人は司法の場におけるジェンダー問題に関して初めて聞く話も多く「へー」と思ったそうで、だいぶメモをとっていて、一緒に行ってよかったと思いました。私は質疑のときに立て続けに男性参加者が質問し多くの時間をとったことに若干の違和感を覚えましたが、それでも単なる感想で満足し合う場でなく、細かい経緯について突っ込んだ質問がなされ、様々な観点が提示され考えさせられたので、結果としては有意義な時間となりました。
また、このたび判決を受けての「緊急声明」への賛同要請を友人や地元の市民運動関係者、さらに京都教育大学時代に所属していた部のOBに連絡したところ、署名に協力してくれる方が何名も現れました。非常に心強いです。学習会に出席したことで問題点もより見えてきましたし、大学側の処分の妥当性に関しては男子学生たちに対する更正プログラムの詳細がわからないこともあり私自身十分な検討はできていないのですが、控訴審で女性の人権が尊重されるよう、セカンドレイプ判決がサードレイプ判決につながらないよう、声を上げていきたいと思っています。