2015.07.16 Thu
発達障害かも知れない子どもと育つということ。32
長崎県佐世保市で2014年7月、高校1年生の女子生徒(当時15)が殺害された事件で、殺人や死体損壊などの非行内容で家裁送致されていた元同級生の少女(16)について、長崎家裁(平井健一郎裁判長)は13日、第3種(医療)少年院に送致する保護処分を決定した。少女には、重度の自閉症スペクトラム障害(ASD)など複数の障害があると認定。小学校で問題が顕在化した際に適切な対応がなされなかったことなどと相まって非行に至ったと指摘した、という(朝日新聞2015年7月13日 )。
やっぱりというべきか。少しばかり発達障害に通じているひとであれば、この事件を聞いたときにすぐに、「(加害者)少女には発達障害の傾向があるだろうなぁ」と思ったはずである。かくいう私も、そう感じた。
しかし、この加害者の少女に関して、「遺族に厳罰を望む感情がある中でも、検察官送致(逆送)を選択しなかったのは『刑罰による抑止は効果がない。刑務所は特性に応じたプログラムが十分でなく、かえって症状が悪化する可能性がある』と説明。精神科医らによる長期の矯正教育と医療支援が必要と結論づけた」ことに、ネットの反応はとても厳しい。その声を拾って、直接ここに書きうつす自体が、「ヘイト・スピーチ」のような効果を持つため、躊躇われる。
被害者の少女の遺族からすれば、友達だと思っていた子に、「殺人をしてみたかった」というような興味から我が子を殺されれば、それはもうやり切れないだろう。それは重々理解できる。しかし関係のないひとたちが、事件を理解するより以前に、条件反射的に、「少年法を適用するな」、「死刑にすべき」と声高に叫び続けることには、恐ろしさすら感じざるを得ない。
興味深い言説は、発達障害自体を責めるというよりは、「発達障害だというなんて、本当に発達障害のひとに失礼だ」というような言明のほうである。「発達障害なんかではない。サイコパスだ」。「重度の自閉症(スペクトラム障害)が、一人暮らしなんてできるわけはない。嘘をついている」。「矯正なんてできる訳はない」。「税金の無駄遣いだ」。「死刑にしないなら、一生隔離しろ」。発達障害に対する「差別」にはむしろ加担しないようなかたちで、「療育不可能性」が主張される。
発達障害のすべての人間が、この少女のような欲望をもつわけではない。さらに実行する訳でもない。発達障害への偏見が、広まらないように願いたい。このような事件は本当にごく稀な、不幸な極限のケースであることは、間違いない。
しかしそれでも、やはり今回の事件が少女の個人的な性質に起因するものであるというよりは、やはり適切な療育を受けずに放置されてきたことにも原因があるとは考えざるを得ない。「反省しにくい」「自らを振り返りにくい」という特質をもつ少女が、刑務所で間違いなく被害意識を募らせるよりも、自らの行為を振り返るチャンス与えてもらうことこそ、被害少女の悲劇にこたえることにならないだろうか。
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カテゴリー:発達障害かも知れない子供と育つということ / 連続エッセイ
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