
家の近所に与謝野公園というのがあると区の広報に出ていたので、朝の散歩の足を延ばしてみました。与謝野晶子・鉄幹夫妻が昭和の初めに住んだ家の跡とかで、建物も記念碑も何もなく、ベンチが二つ三つあるだけの小さな公園でした。
公園内につくられた小道を一周しようとして、道端に歌が書かれた小さな円盤のようなものがおかれているのに気づきました。晶子と鉄幹の歌が書かれていて、数メートルおきに円盤がおかれていました。二人がこの土地に住んだ時の歌かと思ってみていったのですが、かの有名な「やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君」(1901年作)などもあるので、どうもそうでもなさそうでした。「わが子らが白き二階の窓ごとに出せる顔も月の色する」(1933年)という鉄幹の歌は、この地の家のことを詠んでいるとわかりましたが、その他の歌はこの公園の前身の与謝野夫妻の旧居とは関係がないようでした。
その歌の中に
男(をとこ)をば罵(ののし)る 彼等(かれら)子(こ)を生(う)まず
命(いのち)を賭(か)けず 暇(いとま)あるかな
というのがありました。すごい歌です。
私は晶子の歌は好きなのが多くて、ふと口をついて出ます。先の『乱れ髪』(1901年)の「やは肌の」をはじめ、
そのこ二十(はたち)櫛に流るる黒髪のおごりの春の美くしきかな
のような若さの情熱をストレートに激しく歌い上げるのや、
金色(こんじき)のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に
清水(きよみず)へ祇園(ぎおん)をよぎる花月夜 こよひ逢う人みな美くしき
のような、絵のような美しい光景を美しく詠んだもの。そして、
あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふうことなかれ、末に生まれし君なれば、
親のなさけはまさりしも、親は刃(やいば)をにぎらせて人を殺せとをしへしや
に始まる「君死にたまふことなかれ」も好きな歌です。
でも、今朝の公園で見かけたのはそうした歌とは全く趣の違う歌でした。
男をば罵る。彼等子を生まず 命を賭けず 暇あるかな
「男をば罵る」とはすごいとは思いませんか。「罵る」などということばはまず短歌に出ては来ないでしょう。男を罵って何を怒っているのでしょう。「彼等は子を生ま」ないからです。出産のために「命を賭ける」こともしないからです。そして「暇ある」からです。
家に帰ってnetで調べてみました。「産褥の記」(青空文庫)というエッセイの中でこの短歌は詠まれていて、歌集『青海波』(1912年1月)に収められていることがわかりました。
「産褥の記」には、1911年2月の晶子の6度目の出産前後のことが書かれています。晶子はその前に長女と次女を双子で生んでいるのですが、この6度目も双子を身ごもっていました。少し引用してみます(表記を一部変えています)。
「産前から産後にかけて七八日間は全く一睡もしなかった。産前の二夜は横になると飛行機の様な形をした物がお腹から胸へ上る気がして、窒息する程呼吸が切ないので、真直に坐つた儘呻(うめ)き呻き戸の隙間の白むのを待つて居た。[…]上の方になつて居る児は位置が悪いと森棟医学士が言はれる。其児がわたしには飛行機の様な形に感ぜられるのである。わたしは腎臓炎を起して水腫(むくみ)が全身に行き亘つた。呼吸が日増に切迫して立つ事も寝る事も出来ない身になつた。わたしは此飛行機の為に今度は取殺されるのだと覚悟して榊博士の病院へ送られた。
生きて復かへらじと乗るわが車、刑場に似る病院の門」
それまでのお産は自宅でしていたのですが、初めて入院しての出産で、その入院は死刑場に入るようだというのが実感だったと言っています。
医師や産婆さん、看護婦に見守られてのお産は心強かったのですが、それでも産む時の苦痛は減らず、今までの時よりもひどかったのです。双子の先の子は案外楽でしたが、後の子は逆子で飛行機のように晶子を苦しめ、医師には手術をとまで言われ、死を覚悟します。結局、「逆児の飛行機が死んで生れた」のです。さらに産後も苦しみます。
「産後の痛みが又例に無い劇しさで一昼夜つづいた。此痛みの劇しいのは後腹の収縮の為に好い兆候だと云ふのですけれど、鬼の子の爪が幾つもお腹に引掛つて居る気がして、出た後でまでわたしを苦めることかと生れた児が一途に憎くてなりませなんだ。[…]婦人問題を論ずる男の方の中に、女の体質を初から弱いものだと見て居る人のあるのは可笑(おか)しい。さう云ふ人に問ひたいのは、男の体質はお産ほどの苦痛に堪へられるか。わたしは今度で六度産をして八人の児を挙げ、七人の新しい人間を世界に殖した。男は是丈の苦痛が屡(しばしば)せられるか。少くともわたしが一週間以上一睡もしなかつた程度の辛抱が一般の男に出来るでせうか。 婦人の体質がふくよかに美しく柔かであると云ふ事は出来る。其れを見て弱く脆いと概論するのは軽卒で無いでせうか。更に其概論を土台にして男子に従属すべき者だと断ずるのは、論ずる人の不名誉ではありませんか。 男をば罵る。彼等子を生まず命を賭けず暇あるかな。」
ということだったのです。自身の何度も体験している死を賭すほどの生みの苦しみを基に、晶子はその苦しみに耐えている女と、生むことをせず、命もかけずにのうのうと暇をつぶしている男とを対比させます。生みの苦しみも知らず、その苦しみにも耐えられない男が、女を弱い者脆い者として従属させている、それはないでしょうと憤慨に耐えないのです。そういう男を罵っているのです。
110年前に与謝野晶子は、女の力を信じ、女を従属させようとする男を罵っていました。「罵る」という動詞はあまり上品なことばではありません。でも晶子の歌ではこのことばが猛烈なパンチをきかせています。ことばの使い方ですね。
今なら「男」だけでなく、「プーチン」とか「安倍」を入れるのもいいかもしれませんね。
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