順天堂大学の医学部が入試で女性を差別していた事件の判決が出ました。男性受験者と同じ点を取っていても、女性であるだけで落とされていた受験者が「性別を理由に差別された」と訴えていた裁判です。裁判長は、「女性を一律に不利に扱う基準は…不合理で差別的だ」として、大学側に慰謝料を払うよう命じたものです。この女性たちは、何とも悔しい思いをしていることでしょう。幼いころから医師になろうと強い意思をもって受験勉強に励んできた、そして合格ラインに達していた、それなのに女性であるというだけで落とされてしまった、その悔しさ悲しさは察するに余りあります。30万円程度の慰謝料で報いられるようなものでは決してありません。大学側のとんでもない性差別で、人生を狂わされてしまった女性がいることは、本当に許せない暴挙です。

 こうした教育上での女性差別は戦前から続いています。女性が大学に入れなかった時代があることを若い世代の人は知らないかもしれませんが、そういう暗い歴史も知っておいてください。

 戦前は、女性は国立大学には入れなかったのです。例外的に3つの帝国大学だけ女性に門戸を開いていました。東北大学・九州大学・台北大学です。この中で最初に門戸を開いたのが東北大学でした。東北大学で国語学を学んだ寿岳章子さんは、晩年までずっとこの差別を怒っていました。戦前の教育制度では、小学校は共学でしたが、その上から男女の学ぶ学校が別になり、旧制の高等学校には女性は入れませんでした。その上の大学も、東大や京大では女性は学べなかったのです。京都生まれの寿岳さんは、本当は近くの第三高等学校や京大に進みたかったけれど、門戸を閉ざされていたので、やむなく女子専門学校を経て東北大学に進みます。この東北大学が女性に門戸を開いていたのは幸いでした。

 東北大がどうして真っ先に女子を入れることにしたのでしょう。そのあたりのことを寿岳さんの話や、当時の文部省からの文書の写真、『東北大学』という毎日新聞社が出している本などからまとめてみましょう。

 東北大学が女性の入学を認めたのは、1913(大正2)年でした。大学が開学して学生を募集し始めたのは明治44年ですから、3回目の学生募集の時でした。当時は7月に試験をし、9月に入学というスケジュールになっていたのですが、この年8月、東北大学が女子の受験を認めたと知った文部省はあわてます。8月9日付で文部省は、専門学校学務局長松浦鎮次郎の名の公文書を、東北帝国大学総長北條時敬宛に送りつけます。北條総長はこの5月、前任の沢柳政太郎の後を継いで就任して間もない時です。この文書を今の文章にしてみます。

「貴学の入学志望者の中に数名の女子が出願していると聞きましたが、元来女子を帝国大学に入学させることは前例のない極めて重大なことです。大いに検討を要することですので、ご意見の詳細を伺いたく照会する次第です」

 この文部省からの照会に対するその後の経過は、この文書の写真でわかります。右側の欄外には赤字で「8月25日、総長文部省へ出頭、次官へ面談済」、左上の欄外に「完結」と書き込まれています。25日に総長が文部省に出向いて面談し決着がついた、というわけです。

 8月21日の官報には、
入学許可 東北帝国大学理科大学ニ於テ今般入学ヲ許可シタル者ノ族籍、氏名イロハ順左ノ如シ(文部省)
として、40人の名前が記されています。その中に、数学科に「京都府平民 牧田らく」、化学科に「鹿児島県平民 丹下ムメ」と「佐賀県士族 黒田チカ」の計3人の女性の名前が見えます。余計なことですが、大正期にも士族とか平民とかの区別をしていたんですね。

 文部省は一方で高圧的な文書を送りつけておきながら、一方では女性3人の合格をその返事がくる前の21日には許可していたわけです。

 25日、呼び出された東北大の総長は文部省まで出向きます。そこで総長は、既定の方針通り女子の入学をさせると言ったのでしょう。それを文部省は認めたわけです。「完結」としっかり書かれた赤い文字には、総長の文部省対決が東北大側勝利で「完結」したという喜びの思いが書き込まれているように見えます。

 めでたく3人の女性が日本で初めての帝国大学生になりました。しかし、この女性たちはどうして東北大学が女子を入学させることを知ったのでしょうか。3人の女性の1人、「紅(べに)」の研究で有名になった黒田チカさんは後に書いています。黒田さんは当時、女子の最高の教育機関であった女子高等師範学校(女高師)に在学中だったのですが、「大正2年初めのころ仙台の東北帝大から女子にも学問の門戸開放の沙汰が伝えられた。…長井先生(女高師で化学を教えていた東京帝国大学医科大学教授長井長義)はこれをきかれ、化学科からも是非同様志願するよう私に熱心なご勧告があり…」と。ここで、1913年の初め、沢柳の総長だった時期に、東北大学が女子の門戸開放を決めていたことがわかります。では沢柳はどうして女子に門戸を開くことにしたのでしょうか。

 沢柳が根拠としたのは、帝大創立、運営の法的根拠である帝国大學令でした。この大學令には、入学資格を男子に限るとは書かれていないのです。今回改めて大學令を見ましたが、確かに男子に限るとか、女子は入れないとかいう規定はどこにも見当たりません。「男子に限る」というような項目がないのだから、女子を入れてもいいはずだと、沢柳は考えたのです。本来大學令に「男子に限る」のような項目がないのもまた大きな問題です。法令にそう書く必要は全くなかった、という当時の状況が恐ろしいです。つまり、当時は女性は大学で学ぶことなどありえないことだったのです。学ぶ必要もないし、学びたい女性もいるはずがない、こういう前提のもとではわざわざ「男子に限る」と書く必要はなかったのです。ともあれ、「男子だけ」「女子はダメ」などとどこにも書いていない法律の下で運営されているのだから、女子を入れてもいい、女子を入れよう、こう沢柳は考えました。

 そのおかげで、黒田さんや寿岳さんたちは戦前の東北大学で学ぶことができました。この沢柳の決定を知るにつけ、ではなぜ東大や京大はそれをしなかったのかと、新たな疑問がわいてきます。東大や京大は、法令のどこにも女性はダメと書いていないのに、女性はダメだと決めつけて女子を入れてこなかった、という、女性から見たら許しがたい犯罪行為を続けてきたということになります。東大や京大には、沢柳のような頭の柔らかい人はいなかった、足元の不条理を疑おうとすることもなく、頑迷で、ただ長いものに巻かれて、しかも権威を笠に威張っている、そういう集団だったのでしょうか。情けない話です。

 救いもあります。黒田さんの文にあるのですが、黒田さんに大学進学を「熱心に勧告した」という長井先生の存在です。こういう先見の明のある男性がいたから、女性も救われました。

 世の中は、沢柳+長井派と東大京大派とが存在します。前者の社会でのウエイトが大きくなって、教育上の不条理な差別で泣く女性が出なくなるまで、私たちは力を出し合わなければいけないのです。

・東北大学・東北帝大・東北帝国大学など書いていますが、どれも同じ大学のことです。
・東北大学理科大学というのは、東北帝大は大正の初めは札幌の農科大学と仙台の理科大学の二大学から成っていたので、この呼び方があります。
・『東北大学』毎日新聞仙台支局編 けやきの街社 1985、『東北帝国大学 女子学生の記録 昭和18年10月に入学して』晩夏会 1998、官報を参照。