
9月に親友の加藤美枝さんを喪い、失意に暮れています。
美枝さんは、マスコミで取り上げられるような華やかな活動家ではありませんでしたが、地域にしっかりと根を下ろして、こつこつと自分の信じる道を歩き通した、かけがえのない友だちでした。市井の片隅に、いつも前向きに生き、こんなに豊かな人生を全うした女性がいたことをぜひ知っていただきたくて、今回は美枝さんのショート・ライフストーリー編とします。
美枝さんは大学の国文科を卒業後、しばらく企業で働いていましたが、結婚した夫の転勤を機に退職して専業主婦になりました。転勤先や、その後戻ってきた夫の実家のあった世田谷区で3人の子育てをしながら、熱心にPTAの活動に加わります。PTAを通じて地域社会との関わりもできてきて、1985年には世田谷区の代表の1人として、ケニアのナイロビで開かれた国際婦人の10年ナイロビ世界女性会議に参加します。
当時、家庭の主婦がアフリカで開かれる国際会議に出かけるなどということは、ほとんど考えられないことでした。はるか地球の向こう側まで公費で出かけられるという、大変得難いチャンスを美枝さんは見逃しませんでした。もちろん誰でも行けるわけではありません、区の代表として派遣されるわけですから、それに選ばれるための課題をクリアしなければなりません。世界の女性たちの現状はどうなっているか、何が問題になっているか、世田谷区の女性として女性会議で何を訴え何を学んでくるか、包括的で具体的な問題意識が求められます。図書館で統計などの資料をかき集め、嫁や母親という生活者の視点からジェンダー役割などの問題意識を掘り下げてレポートを書いたと、彼女は言っています。レポートの審査に通った後も数回の面接があり、数十倍の激戦を突破して獲得したナイロビ参加でした。150か国から5000人もが参加した大会は、それは壮大で活力に満ちて刺激的だったことでしょう。多くを学んで帰国した後も、何度も公の会議や報告会に呼ばれたと言っていました。
ナイロビから戻った翌年、同居していた夫の母が転倒・骨折し、搬送された病院で寝かせきりとなったまま、間もなく亡くなってしまうという悲しい経験をしました。プライドの高かった義母が、病院でおむつをされ、生きる気力を失っていくのを目の当たりにし、今の日本では尊厳を持って死ぬことが難しいという危機感を感じたと、美枝さんは言っていました。高齢者が尊厳を持ち続けるためにはどうしたらよいのか、今何を学べばそれがわかるかを考えました。美枝さんは、当時、日本女子大で社会福祉学で教鞭をとっていた一番ケ瀬康子教授の門を叩き、講義の聴講生として何十年ぶりかに大学の門をくぐります。
そのころ日本は高齢社会の到来を目前に控えて、措置型の福祉から契約による社会福祉サービスの利用へと大きく動き出していました。1987年には社会福祉士の資格が誕生し、美枝さんはさっそくその翌年、この資格を取得しました。
そのころ、アメリカ人のソーシャルワーク専門家のスーザン・ボーゲルさんと出会います。ボーゲルさんが日本人の相談に乗っているときのテープを聞きながら、そのやりとりの日本語の細かいニュアンスや日本人の情感、生活習慣などについて、日本語の面からのサポートをすることになります。1年ほど続いたそのサポートから、美枝さんはソーシャルワーカーとしての面接のやり方、ことばの挟み方、相手の気持ちに共感する態度などをじっくり学んだと言います。
民生委員などの経験を積みながら、大学で学び続けるうち、美枝さんは社会福祉事業大学で非常勤の実習担当教員をするなど、少しずつ福祉教育の経験を積み重ねていきます。世田谷区の老人大学の講師も引き受けて、地域での活躍の場も広げていきますが、その間に実のお父様の看取りも経験します。
子どもたちも成人し、手が離れたころ、聴講生として師事していた一番ケ瀬教授が定年で日本女子大を去り、九州の女子大に移ることになりました。1998年4月、美枝さんは一番ケ瀬教授を追っかけて九州の大学の大学院に入ります。60歳を過ぎてからの修士課程への入学でした。修士論文に取り組んでいた1999年、今度は夫さんが末期がんだとわかり、1年ほどで亡くなってしまいます。しばらくは悲嘆にくれて、何も手につかなかった美枝さんですが、一番ケ瀬教授の励ましもあり、何とか大学院に復帰し、修士論文を書き上げて大学院を修了しました。夫さんのケアと看取りなど、東京での生活をこなしながらの院生生活と修士論文作成は、相当しんどかったと思います。
2000年に介護保険制度ができ、人材の養成が急務となっており、大学には介護福祉士や社会福祉士養成の学科が新設される、そういう時期でしたので、美枝さんは間もなく仙台の女子大の社会福祉士養成学科の教授として呼ばれます。既に65歳、普通の人が定年退職する頃に、初めて大学教授としての赴任です。今度は北に向かって新幹線での仙台通いが始まります。目黒に住む実のお母様の介護もしながらです。仙台での勤務が始まって数年後に、98歳のお母様を見送りました。親の代から住んでいた家が古くなって、設計士と相談しながら家の建て替えもしました。こうしたいくつもの大仕事をかかえながらの大学教授生活でした。
山が好きだった夫さんとは、忙しい中でもよく一緒に山に行っていた美枝さんです。夫さんの亡くなる数か月前、日本で初めて樹木葬というアイディアが新聞に報じられました。美枝さんは樹木葬を始めるという岩手県のお寺と山を見に行き、自然回帰の方法に共鳴し、そのお寺の管理する里山の一部を埋葬の土地と決めました。夫さんが亡くなると、その栗駒山のふもとの里山に骨を埋葬し、決められた樹木の中から選んだ山つつじを植えました。まだそのやり方が始まったばかりで、美枝さんが57番目の樹木葬墓地契約者だったそうですが、今はその山も埋葬の場所を広げて数千人の人が眠るようになっているそうです。そして、今では全国にこの樹木葬が広まっています。美枝さんは、新しいことがいいとなったら、ためらわずに実行に移す人でした。
大学教授として、アカデミズムの世界に一気に飛び込んだ美枝さんには、どんなに主婦として地域人としての豊かなキャリアがあっても、それでは通じない大学社会の文化に戸惑い悩むことも多かったと言っていました。でも、豊かな社会人経験から来る自信と、持ち前の明るさがものを言って、社会福祉や福祉文化の講義や実習指導では学生たちの評判がとてもよかったようです。70歳の定年で東京に戻ってからも、学会や研究会で東京に来る学生たちに慕われ、絶好の宿泊所を提供して、後進の指導を続けていたのです。
5年間の仙台通いが終わると、今度は世田谷区の生涯大学(旧老人大学)の講師に復帰します。区内の、定年後の生きがいを求めて集まる老大生を相手に、今度は大人の受講生の学びを支援するための奮闘が始まります。担当したのは福祉文化コース。受講生の中には、企業などで高い地位についていた人、海外経験の長い人、主婦として地域の経験が豊かな人など、いろいろな人がいます。そうした受講生たちが、地域に関心を持ち、地域福祉の担い手となってくれるよう、美枝さんはいろいろアイディアをひねります。一方的に教えるのでは飽きられます。受講生が自分たちで地域課題を見つけて、調べて、考える、それをどうサポートしていくか、大学院のゼミのような仕組みも考えたと言います。いつも準備が大変だったようです。
この世田谷区生涯大学の「子ども家庭福祉」の授業の一環として、近くの保育園に「保育園の役割と子どもたちの今」というテーマで講義をお願いし、見学訪問させていただいたことがきっかけで、修了生に自主グループができたそうです。月に1回、子どもたちに「遊びや読み聞かせ・エコ工作」などをする会が始まり、「ひこばえ広場」の名称でその後、10年以上も活動を継続することになります。
ひこばえ広場のような活動を継続していくには、資金がいります。そこで、国が関与する「子ども夢基金」に、応募もしてみました。複雑で厄介な応募書類を苦心しながら頑張って書いて提出したものの、高齢者が主体の活動だからとの理由で通らなかったそうです。縦割り行政にはおおいに失望していましたが、折よく、世田谷区から声がかかりました。介護予防・日常生活支援総合事業の1つとして、世田谷区が独自に住民主体型地域デイサービス事業を始めるので、やってみないかという誘いでした。ひこばえ広場の皆さんや、生涯大学の教え子たちと議論の末、もともと「ひこばえ広場にたまごの家を建てたい」という夢がありましたので、老幼の交流の場「たまごの家」を、区の事業として新たにはじめることにしました。美枝さん80歳を目前にした新たなチャレンジでした。
「たまご」の由来は「他孫」、「他人の孫も自分も孫もみんな地域の孫」という美枝さんの造語です。区の方針は介護予防事業なので、対象は高齢者になりますが、担当課に出向いて保育園児との交流が高齢者にとってどんなに大切なことかを縷々説明し、理解をしてもらった上で、活動団体に加わることになりました。地域に1人で暮らす高齢者が増えてきた、また子供たちは核家族で高齢者を知らない、この2つの世代を結びつけて、たがいに一緒に過ごす場所を提供するというプロジェクトです。賛同する仲間を募り、定期的に集まれる場所を確保し、地域の人たちに呼びかける、もちろん活動資金の予算や決算なども区に報告しなければなりません。こうした作業を、美枝さんは「大変、大変」と言いながらも楽しそうにこなしていました。
土曜日のお昼少し前に集まって来る高齢者と子どもたちが、一緒に昼食を準備し、食卓を囲み、そして、高齢者は昔の子どもの遊びや木工細工などを今の子どもたちに教える、子どもたちは学校であったことを高齢者に語り聞かせる、こういう楽しい場が出来上がっていきました。そのうち近くの大学生も加わって手伝ってくれるようになりました。2つの世代が3つの世代にと広がり、楽しい活動の場がさらに広がっていきました。
美枝さんは、自分の蒔いた種が大きく元気に育っているのを確かめ、「もう思い残すことはない」とお子さんたちに言い残して、従容と、かの地に旅立ったそうです。今は、夫さんが待っていた栗駒山のふもとでゆっくりと休んでいることでしょう。
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