
本書は、在日朝鮮人三世の、自分のアイデンティティを巡る深い自己洞察の記です。帯の言葉をそのまま紹介すると「なぜこんなに“わが民族”というものを求めて心が向かい、同時に民族に対して個を守ろうとするかのように心を閉ざし続けるのか。この引き裂かれた私の根拠が何なのか、実はまだよくわからない」(本文より)です。
引き裂かれた心情の別面は、日本に生まれ、日本語で教育を受け、一方で朝鮮語はよくわからず、勉強をしたものの途中で挫折。したがって祖父母とは十分なコミュニケーションができなかったという現実でしょう。大阪にいる彼らの家を訪ねたのに、何を聴いたらいいのか、言葉もなく、音を消したテレビを黙ったまま見ている祖母との時間。そして「ある日、大学のキャンパスを歩いていて、突然なんの脈絡もなく自分の身体が頭のてっぺんから二つに裂けていくようなイメージが襲ってきた」という著者に状況。
一章「一つの名前で生きる」には、どちらかと言えば古い地域の東京都心で喫茶店を営む家族は日本人らしく振舞い日本名で通します。「民族に誇りを持て」とか「いいじゃない日本に住んでいるのだからその名前で」などと誰が断じられますか。この著者の煩悶は、私などが、別の表現でするよりぜひ読んでいただきたい。
二章「死者の声」もまた深く心を動かされる箇所です。日本語を学ぶ過程で国語の時間に、「“わが国は”というのは日本人にとっての主語であって、私の場合は“日本は“と言い換えなくてはならない、、、、。だからそんな風に慎重に”距離“をとることで、ようやく朝鮮人としての私という自負をひそかに育てていたのだと思う」ひそかに育てていた「自負」を自ら確かなものにするために、「自分が何者であるのか」の答えだすために、著者は「在日本朝鮮人留学生同盟」(留学同)の一か月講座に出席します。授業の一環として、北九州のかつての炭鉱地帯を訪ねます。そして身元不明の朝鮮人の遺骨を納骨堂に収めてくれていた寺を訪問し、「遺骨を見た瞬間、立っている自分がなぎ倒されてしまうような暴力を感じ」死者の声を聴きます。「”帰りたい!“とその声は地の底から叫んでいた。(略)声は雷となって私の全身をつらぬいたのだ。(略)”彼らを殺したのは日本人だ“と言って私は弾劾することはできるだろう」。そうしたい、と書くのではなく、聞いた声を忘れない、忘れたら、二度に彼らを殺すのは私になると著者。
この体験は、著者の民族アイデンティティを育てたのかといえば、そう簡単ではありません。「この寺での体験をへておそらくその場でそれまで抱えていた問題そのものが崩れてなくなってしまったのだ」、この体験は自分を無化し「私は日本人も朝鮮人も知らない」と。
著者は、小さな出来事や現象を豊かな感受性で拾い上げ、単純に「差別だ」などと怒らず、丁寧に自分の中で起きてくる心の動きを実に深く広く表現するのです。表現言語そのものより、感情や試行言語が行きつきたい場をたどり、その箇所で表現する意図を持って、言挙げするこの回路を追っていくことに誘われ続けます。何という無知の者の学びになることでしょうか。
著者は「差別されている」という直截な言葉を全く使わないどころか在日コリアンへのヘイトスピーチを垂れ流すグループを大声で非難するわけでもありません。私のようにアイデンティティという言葉を容易に使うわけでもない。この言葉は著者の思考、煩悶、苦悩、苦痛などの心情をはみだしてしまうのでしょうね。
コさん、あなたの民族アイデンティティについては私なりに(と言わせてください)わかりました。
あなたのこだわりに対して私がここに書いておきたいことがあります。それは昨今よく言及されているIdentity Politicsについてです。Politicsは御存じのように普通政治学と訳されています。これがなかなかわかりにくいというか適訳だとは思えないが、適訳を私は見つけられていません。フェミニズムは「Personal is Political」を唱えたので聖典K・ミレットの『Sexual Politics―性の政治学』はむしろ了解しやすかった。
数年前二度目のボストンの大学院に入って、インド系教授の最終論文に、Politicsの日本語訳、政治学という訳語のわかりにくさというか不適切さについて苦労して書きました。簡単にいえば、民族、人種、宗教、階級等のカテゴリーをアイデンティティとして、権力や資源、認知の共有を求める「闘争」を意味するというのが私の理解です。その上に昨今は以前より明確に入っているLBGTQの人たちにとって、ある意味命を懸けた戦いになっているのではないでしょうか。米国で分断がひどくなっている現実を換言すれば、アイデンティティ・ポリティックスの重層化、複雑化が大いに寄与していると思われます。もちろん人は唯一のアイデンティティで生きているわけではないでしょうが。
考えてみるに私など何のアイデンティティらしきものはありません。無職だし、民族的には書類上日本人となっているだけで、ジェンダーやセクシュアル・アイデンティティはカテゴライズしたくないし、宗教もあいまい(agnostic)、英語が通じて安全ならどこの国で暮らしてもよい、政治的にはあえていえばアナーキズムのリバタリアンです。コスモポリタンなどの洗練された言葉など使うまい、ようは根なし草、デラシネです。捨てないのが女性であることとフェミニスト・アイデンティティで、それだけで私は私でありえています。Sis-genderだけが女性ではないという反論を今は置きます。
あなたの民族アイデンティティについて何かをいいたいわけではありませんが、アイデンティティが細分化され、その一方である種の液状化現象もみられる、このことをあなたはどう思うのでしょうか。
*本書著者高秀美さんより、河野さんの問いかけに後日以下のようなお返事をいただきました。河野貴代美さん、高秀美さんのご了解を得て掲示いたします。
河野貴代美さま
丁寧に本を読んでいただきありがとうございます。
後半は、私の「民族アイデンティティ」あるいはそれに対する「こだわり」について、河野さんご自身が考えられていることを、私へ問いかける形になっています。ですので何らかの返答をする必要があるかもしれません。
河野さんは「私などなんのアイデンティティらしきものはありません。無職だし、民族的には書類上日本人となっているだけで……」「捨てないのが女性であることとフェミニスト・アイデンティティで、それだけで私は私でありえてい」ると書かれました。
最初この部分を読んだとき、多少のすれ違いのような違和感を覚えました。「私が私である」とは、いったいどういうことか。そもそも「私」とはなんであるのか、についての部分の認識にズレがあるのかもしれません。
そしてかなり前に読んだシモーヌ・ヴェイユの言葉にたどり着いたのです。
「根をもつこと、それは魂のもっとも切実な欲求であり、もっとも無視されてきた欲求である。職業・言語・郷土など複数の根をもつことを人間は必要とする」(「根をもつこと」)
この言葉に触れたとき、私がそれまで求めてきたものが明確に言語化されたような気がしたものです。
私にとって「民族アイデンティティ」は「捨てた」のでもなく「もたない」と決めたのでもなく、「あらかじめ失われた」存在であると思ってきたからでした。私自身の飢餓感はそこからやってきている――根っこを求めてきたのだと。
それゆえこだわらざるえなかったのが「日本人を装った通称名としての名前」のことであり、聞き取ることのできなかった祖父母の「言葉」のことであり、いまだ統一を果たしていない「祖国」のことであり、……ということなのだと思います。
河野さん、私は「私が私でありえる」ために「捨てる」ことができないのです。いつも意識せざるをえないのが今のこの日本の社会に生きて存在しているということです。
日本人との出会いの場では自己紹介を求められたとき、私はまず「在日朝鮮人3世」であることを告げるようにしています(もちろん誰にでもというわけはありませんが)。あるとき「なにもわざわざそんなこと言う必要ないのでは」と言われたことがありました。別に民族がどうのこうのいう関係でも場でもないのに、そんなことを言われると「圧」のようなものを覚えるからだと。この人はある種の「親切心」から私に忠告してくれたようです。その場に波風を立てないほうがいいよということなのでしょう。
私はそのとき言葉にはしませんでしたが、内心「私こそ、そんなこと言いたくないし、こだわりたくないのに……」と感じてました。
でもこのとき私が何も言わずにいると相手は私を「日本人」というカテゴリーに入れてしまいます。「コ・スミです」と名乗っても、そういう名前の日本人と思われたりします。それは当然でしょう。言葉も見た目も「日本人そのもの」でしかないのですから。
だからこそ私は「他者」であることを表明せざるをえないのです。
確かに私が「在日朝鮮人」だと告げることでその場の空気に変化が生まれます。そのとき初めて彼らは「われわれ」「私たち」に含まれない「他者」が存在することに気づくからです。
ただ問題はなぜ「在日朝鮮人」を表明することが日本人にとって「圧」であると感受されるのか、そしてその「圧」ゆえに、なぜ私の側が沈黙を強いられるのかというところにあるのではないでしょうか。在日朝鮮人は見えない存在であるとよく言われてきました。見ない、見たくないからこそ「見えない」ところに追いやられていると言えないでしょうか。
この社会(日本)に生きるマイノリティはアン・フェアな状態に置かれていますが、多くの日本人はそのことに気づかずに(見えずに)生きています。そしておそらくそのことがアン・フェアな社会を許しているのだと思います。
他者への気づき(歴史的なルーツも価値観も異にする他者が存在する)が必要なのだと思います。そこから相手の立場に立って考えてみる、想像力をもつことができるのだと信じています。
◆書誌データ
書名 :『踊りの場』
著者 :高秀美(コスミ)
頁数 :272頁
刊行日:2024/12/16
出版社:三一書房
定価 :2420円(税込)
