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結局、ふらふらしている自分の姿 あかたけ

2013.05.03 Fri

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 思えば遠くへ来たもので、とある田舎の小さな美術館の嘱託学芸員になって一年が経ちます。日々の業務や生活に馴染めず、 東日本大震災や原発事故をめぐる問題に思いをめぐらせることも少なくなっていたと、内藤さんのエッセイを受け取って、後ろめたく恥ずかしい気持ちになりました。  内藤さんのエッセイでは、原発事故の問題から、「新しい責任」とは、特定の企業や原子力政策を推し進めた政府を問うことだけでなく、未来に対し今のわたしたち自身が集団的に共有すべきものとして練り上げていくことが必要とされていると述べられました。今起こっていることを、わたしたちがどれだけ「集団的に共有すべきもの」としてとらえ、どのような「責任」を、どのような「未来」に対して負うのか。自分の心持ちも含め、正直なところ少々不安です。

 さて、内藤さんのエッセイを受け取って最初に思い出した本が、2011年ユネスコが認定する「世界記憶遺産」に日本から初めて登録されたことで話題になった山本作兵衛(1892ー1984)の炭坑記録画。それをコンパクトにまとめた『画文集 炭坑に生きるー地の底の人生記録ー』(新装版、講談社、2011年)です。  作者の山本は、祖父として自分の孫子に、自分の人生、そして昔の炭坑(ヤマ)を知ってもらう手がかりとするために、五十数年ぶりに絵筆をとって、炭坑の記録を残しました。ただ「孫にやろう」という思いで描かれた記録は、九年間で数百点に及びました。筑豊のヤマの労働者たちが、ヤマという労働環境のもと、どう働き、どう生きたのか。一枚一枚に描かれ、記された情報は膨大です。これらの記録は、記憶を記録(絵と文字)として出力することによって、山本自身が未来(自分の孫子)に対して一種の責任を負った故に残され、さらに山本が想定していた未来の範囲を超えて多くの人の目に触れることとなりました。

 一つ一つの記録を読み進めていく度に、原発事故が重なります。ヤマも原発も国や企業が推し進めたエネルギー政策。その政策は金を生み出し、その金は命よりも重くなり、たとえ危険と知っていても現場の労働者たちは生まれていく。しかし、その現場の労働者たちに、わたしたちの「現在」と「未来」の「責任」を負わせているのが、今の状況なのかもしれません。だから、どうすればいい、という答えが見つからないわたしは、やはり無責任なのだと苛まれます。

 さて、それでも話を進めなければなりません。山本作兵衛の炭坑記録画は、歴史の記録としてだけでなく、美術作品としても評価を受けています。美術教育を受けなかった者の画力。最近「アウトサイダーアート」や「アール・ブリュット」などが注目されていますが、そういう話を抜きにして、山本作兵衛の炭坑記録画から、山下清(1922ー1971)の旅日記『日本ぶらりぶらり』(1958年)アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.を思い出しました。山下が放浪の先々で見たもの、聞いたもの、触れたものに対して感じたこと、疑問に思ったことなどがスケッチを織り交ぜて述べられています。

 特に、山下への社会の視線に対する動揺や困惑が伝わってきます。山下のことを知らない人からは不審者扱いされたり、バカにされたりする一方で、山下を「先生」や「画伯」と呼び、寄ってくる人もたくさんいる。精神科医・式場隆三郎が山下を評価し、プロデューサー的役割を果たしたことは有名ですが、この本も式場によって出版されたものです。一部手が加えられているとはいえ、改めて、式場という人物が山下清という人間と作品を世に広く知らしめるのに重要な役割を果たしたことを考えます。

 小さくとも美術館に勤め始めたわたしですが、結局「美術」というものが何なのか、よくわからずにいます。結局、山下清自身にも山本作兵衛自身にも「美術がどうの」という話が関係ないことは明らかです。ただ描く人がいた。それを「評価」の土台に置くのではなく、その存在を「現在」や「未来」の人々につなぐ役割を考えなければいけないのかなと感じます。それが、「作品」(という言い方になってしまいますが)を預かる現場の責任なのかなと無理矢理考えています。

 社会問題を考えるわたし、仕事の問題を考えるわたし、そして、自分のことを考えるわたし。このエッセイでは結局そういう構成になってしまい、とりとめもありませんが、最後に渡部ペコの『にこたま』(モーニングKC、2010年〜)アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.というマンガを載せたいと思います。アラサーのわたしには、「三十路直前に訪れた最後の思春期、ゆらぐゆらめく第三次性徴白書」などと書かれると人事ではない気持ちに陥ったのです。主人公のカップル(「あっちゃん」と「コーヘー」)は交際して9年、同棲し、何となくケッコンかに見えましたが、全然そうじゃなくなった・・・という話です。三十歳くらいって、すごい大人だと思っていましたが、あぁ、けっこうそうじゃないなとぼんやり思わされます。  社会の中で自分が何を考えたらいいのか、仕事においてどのような立ち位置をとればいいのか、自分の生き方をどうしたらいいのか、結局ふらふらしている自分の姿が、改めて目の前に浮かんでいます。

次回「魔女のつくった劇場」へバトンタッチ








カテゴリー:リレー・エッセイ

タグ: / 原発 / 炭鉱