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「いもうと物語」がつなぐもの 池田直子

2013.09.18 Wed

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「『いもうと物語』からは、なんだか、そこはかとなく動物臭が感じられて、あたしは嬉しくなったんである」。
これは、「いもうと物語」(氷室冴子著/新潮文庫)の巻末の解説を書いた中島みゆきさんの言葉。この言葉に、なんだかしみじみ、頷いてしまう。

「いもうと物語」は、氷室さんの出身地・北海道を舞台に、小学4年生のチヅという女の子の日常を描いた連作集だ。13の短い物語で構成されている。私はもともと女性や女の子が主人公のフィクションが好きなのだが、「いもうと物語」は、別格だった。この小説の何が素敵かっていうと、だんとつに主人公のチヅだった。

主人公のチヅの周りには、たくさんの人がいる。「出面」が得意なお母さん、しっかり者で学校や家族からの人望も厚い(ことが伺われる)お姉ちゃん、口調は厳しいが頼もしい角田先生、ライバルの同級生「おまる」ちゃん、それから炭鉱の町に住む従兄の克志といった人たち。

チヅは彼女たち、彼らとの暮らしの中で、缶蹴りや鬼ごっこに飛び入り、母に縫って貰った赤い革のアノラックを着たくて雪の降るのを今かいまかと待ち焦がれ、東京から来た転校生の少年の無礼さに憤り、さらに無礼な少年の母親に真っ向から立ち向かい、不条理にぶつかれば、正義感と躊躇を抱えて地団駄踏みながら、自分なりにどうすべきか、どうしたらいいか、一生懸命模索していく。そんな忙しくも賑やかな日常を送っている。

中学生になってからは、妙に遠くに感じられるお姉ちゃんが恋しく、お姉ちゃんの級友が憎らしくて腹いせにその同級生の靴を隠す嫌がらせをしてしまうなど、結構やりたい放題やっていて、(おいおい次は何をやらかすんだ、チヅ!)とはらはらしつつも、チヅの口癖や、内弁慶気質、お姉ちゃんの真似っこに至るまで様々な行動のディテールは私にとっては妙に現実的で立体感があり、それも含めて、個人的にたまらなく好ましく思え、読み進むうちに彼女の虜になってしまったんである。

しかしチヅに10代の頃の自分を重ねて読んだというのとは違う、と思う。
私は、チヅという女性のものの考え方や行動に、他者として惹かれた。とりわけ、威圧的な男性教師から不当な嫌がらせを受けたり(『カルピスとゲソ揚げ』)、炭鉱の街での搾取の現実に直面する従兄の克志の悔しさや怒りを目撃したとき(『黒い川』)、チヅはその怒りを感じ、瞬発的な怒り(「許せない!」「あんた気取っててやなやつ!きちんとお礼ゆえないのは、ひねくれてんだよ!」(『友だち』86頁)を言語化し、発する。同時に、そういうふうに反応した後でも、やはりしっかりと傷つき、苦しんでいる自分の心のこともチヅは認め、立ち止まったり呆然としたりしている。

不条理にぶたれた悔しさは、どのように反応できたとしても、個人の身体に染み入ること。チヅのモノローグから、そうした厚みを感じることが出来る。

チヅのそうした瞬発力や厚みある人間らしさは、読者の私にとって、一個人としてのチヅという女性のもつ底力や立体感を感じさせるもので、読んでいるうち私の中でモヤモヤしてこんがらがっている何かがたんたんと元通りになっていくような、へんてこな安心感と爽快感を私に与えてくれた。チヅは私より2まわり以上も年下の女性だが、私はほとんどチヅを頼るように繰り返しこの小説を読んできたのだった。

ところで、小学生の頃、私の担任の男性教師が、クラスの生徒全員に「自分たちがこれまでついた嘘や悪いことを全部書いて提出しなさい」と道徳の授業で命じたことがある。私は心の底からこの課題が怖かった。自分の秘密を第三者に晒すことが恐ろしく、嫌だっ!と思った。けど、それを言うことはなぜか出来なかった。これは正しいことなんだろうと自分に言い聞かせ、プリントいっぱいに自分の「悪事」を書いた。教師は全員分を集めたが、それがどうなったか、私は今でも知らない。

今思うと、なんで、あのとき「こんなことしたくない」といえ(わ)なかったのか、不思議であるが、抑圧って、多分往々にしてそういうものなのだと思う。元々言い返せないような関係性にある側にごりっと押し付けられる。

不思議なもので、ごりっとしたものを受け入れたことは、いつもどこか自分につきまとっている。今考えれば明らかな不条理が、「授業」という名の下になされたこと、自分が「おかしい」といわなかったことに、自分はもやもやを今でもずっと感じているんだなと最近になって理解できた。

私は「いもうと物語」に、10年ほど前出会っていて、初めて見つけたのは当時住んでいた北米の町だった。その町で唯一日本語の蔵書のある図書館で、「いもうと物語」を読んで以来すぐに自分でも購入し、それからいろんな場所に引っ越すたび、「いもうと物語」を連れて移動した。いまでは小説の冒頭は空で言えるほどだ。

チヅという10歳の女性が悩み、ぶつかりながらも、ぐいぐいと世界に手足をのばす姿に、私は大きく励まされてきたんだ、と明確に思う。「おかしい」といえなかった自分の分まで、チヅが取り戻してくれているような、そんな気持ちで私は彼女を好いてきた。

このあいだ、この小説の著者氷室さんの希少なエッセイを読むことが出来た。『ホンの幸せ』(集英社)というエッセイの中で氷室さんはたった2頁弱だけど、自著の「いもうと物語」を書いたわけをつぎのように語っておられる。

「傷ついた自分を回復するというか、自分の中の原風景を確認してみたい、それによって自分自身を癒したいと言う気持ちが 強くなっていって、それで書いたのが『いもうと物語』です。(中略)この小説を書いている間中、考えていたのは祝福することだけでした。作中のチヅルちゃんや、彼女が関わってゆく人びとを祝福すること、その幸福、この先彼女の前に広がってゆく未来が。彼女や彼女が関わる人びとにとって優しいものであって欲しいと祈る気持ち。少なくとも、書くことで私自身も癒されていました。」(前掲書、218〜219頁)

初めて「いもうと物語」に出会って10年近く、自分が受け取ってきたエンパワメントの正体に遅ればせながらぶちあたったような気がした。「いもうと物語」を書いた1980年代後半、「過剰反応だったかもしれないけど」といいながらも氷室さんは、世の中の空気、その何かに傷つき絶望していたと書いている。そこから生み出されたチヅに、私はそれから20年くらい経って出会ったのだった。願わくば、私がどれほどチヅ、そして氷室さんに感謝しているか、伝えることが出来たらなあと叶わぬことを心から思う。

だけど、直接言葉にしなくても、伝わるものはあると思う。やうちさんはこう書いている。

「物語は、こうして人の手から手へ、ぬくもりを通して、伝えられている。女たちの日々の「手仕事」が、人びとのつながること、生きることを、支えている」(やうちことえ、「『手渡し』の物語」より)

氷室さんがご自身のために祝福の思いを込めて造り出したチヅは、たしかに私のもとに「手渡さ」れ、そしてたしかに私は、それに支えられてきたのだと今しみじみと実感する。悩み苦しみながらも、自分の言葉で掴み、たぐり寄せ、現実を生き抜こうとする10歳の女性の主体力を信じ、祝福し、真っ向から書き出した、氷室さんの想像力に、私はずっと支えられてきたのだ、そう理解したとき、ただ一冊の薄い本を私はいつまでも抱きしめていたくなるのだ。








カテゴリー:リレー・エッセイ

タグ: / フェミニズム / ケア

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