views

2412

ちょっとだけ「流れに逆らう」、心地よさ・・・について考える心地よさ      荒木菜穂

2013.10.11 Fri

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.前回の池田直子さんのエッセイを読み、感情をためこまず、上手に表現するということの大事さ、難しさについてあらためて考えさせられました。感情、とは少し違うかもしれないけど、私の中で、自分の気持ちに正直になる、という一つとして、「流れに逆らいたい」願望というものがあります。そんなに大層な話ではなく、直観的な、本当に、純粋な願望の話です。

突然ですが、髪をブローするのが好きです。別にヘアスタイルがきまることが嬉しいとか濡れたままだと髪が傷むから、とかいうわけではなく、私はひどい「くせ毛」なのですが、その強固な「くせ」の巻き方に逆らって髪を巻く、伸ばす、そういった一連の作業が上手く行った時、この上ない喜びを感じます。その時の私の心の声としては「お前の思い通りになると思ったら大間違いだぞ、ざまあみろ!」といった感じでしょうか。

それ以外でも、なかなかとれない結び目をなんとかして解いたり、車道で割り込んでくるバイクを何とかして阻止したり(危ない)、家に大量発生(?)したアリを、バルサンとか使わずボール紙で無理やり作った「アリの通り道」に誘導して駆除したり。絶対無理な体勢で服を着たり、アクセサリーをつけたり、も達成感あり。音楽の趣味、ファッションの趣味も、女子中学生、高校生とはこのような音楽を聴き、ファッションをするもの、という流れからできるだけ外れたい願望でできあがった気がするし、以前「晩ごはん」のコラムで書いたうどんの話じゃないけど、立ち食いうどんに通いだしたのも「おっさんの聖地」みたいな場所を犯したいような気持ちも最初はありました。

こういう直観的な「流れに逆らう」気分は、視野が狭くなりがちで、例えば音楽の趣味なんかでは、女子が聴かなさそうな音楽(=6、70年代おっさんロック)を聴く、女子っぽい聴き方をしない(=曲の薀蓄に興味を示しストイックに聴く)一方、女性のミュージシャンには興味が持てなかったり、バンドの男性メンバーをミーハー的に好きになるのは自分の中ではタブーとしたりしていました。でも、結局それって、女子とはこう聴くもの、という決めつけを自分の中でしていて、その流れに従っていてしまったのだなあと後から反省しました。本当に「流れに逆らう」なら、「男子の聴き方」のほうが「女子の聴き方」より価値が高い、とする考え方そのものに挑戦するほうがよかったんだなあと今では思います。そして、それに気づいた数年前から、ミーハーへのリミッターが外れ楽しい日々です。

直観的な天邪鬼は、反抗心や社会を変える意気込み、という感覚とは少し違う。ましてや、人と違ってることに価値を見出すような行為の一環でもない(だったらもっと変なことしてるはず)、一種のささやかな破壊衝動のような、カタルシスのようなものです。

ただ、中には、そんな「流れに逆らう」心地よさでありながら、反抗心や社会を変える意気込み、にも通じるような心地よさもあって、例えば、いわゆる「シモの話」があります。女がエロに関して語る姿は、なぜか語っている女性本人の性的価値とセットで判断されてしまう(ブスのくせに下品、エロ好きなすぐやらせる女、みたいな)、女子がエロに興味を持っても、嫌悪を示しても叩かれる風潮。だから、エロを女子の言葉(=非「既存の男性の言葉」という意味で)で、語る、笑う、そういう瞬間に、「女子はエロに近づくな、でもエロの対象になれ」的価値観への「ざまあみろ」を感じ、心地よかったりします。後から考えると、ジェンダー構造への抵抗、みたいな。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.私としては、「流れに逆らう」ことは単なる感覚の一種でしかなくって、さきほどの音楽の例のように、その行為を、もう一人の私が客観的に捉えて初めて、それが、単なるカタルシスか、ワガママか、もしくは(それが実際は毛嫌いの根本にあるかもしれない)「社会への抵抗」か、そんな意味が出てくるのでは、と思っています。B-WANのコーナーなので本のことも書きますと、本を読む喜びの多くも、「そういうもの」という流れへの抵抗の喜び、それをきっかけに社会のしくみについて考える喜びであるといえます。さきほどのシモの話じゃないですが、今年は、性に関する「そういうもの」を心地よく逆らう気分にさせてくれるいくつかの良い本が出ました。出産に関しての『出産と生殖をめぐる攻防』(木村尚子著)、男性の性に関しての『立身出世と下半身』(澁谷知美著)、生理用品に関しての『生理用品の社会史』(田中ひかる著)など。私は歴史を真剣に勉強したことはないですが、声の大きい歴史が「そういうもの」を作っている現実において、それに逆らう「歴史」(のうち好きなもの)には最大限のリスペクトの気持ちを持ちたいと思っています。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.私の「流れに逆らいたい」願望は直観的で幼稚なものかもしれないけれど、それは「社会のおかしさ」を考える自分というプロセスとセットでいまは存在している感覚です。私にとって天邪鬼な気分は、自分に正直に健全に生きるためにも、社会への抵抗のためにも、不可欠なものだということです。

でも、周囲の流れに逆らうことは、やっぱり他人の迷惑になることもある。そして、往々にしてこの日本では、特に昨今、流れに沿わない人を毛嫌いする風潮もある。それは、「和」を重んじることこそ美しくって、自分の欲望を優先する人は我慢が足りない(「和」への期待にはかなりジェンダー差もあると思います)、とか、さきほども言ったような、他人と違う自分をかっこいいと思うような幼稚な人だ、みたいな。最近では、周囲と同じ気持ちになれない人は害毒だ、みたいな風潮さえありますし。

「他人と違う私、かっこいい」(笑)、「なんでも反対すりゃいいと思って」(笑)・・・みたいな感情、もうやめよう。ほんとにそう思います。

「流れに逆らう」ことへの嫌悪感は、直観的な「逆らいたい」願望と同様、幼稚なものだと私は思います。「流れに逆らう」心地よさ、「流れに逆らう」ことを嫌悪する心地よさ、なぜ私はそれが心地よいのか、社会のレベル、自分のポジショナリティのレベル、他人や歴史への想像力、自分の知識や情報への懐疑、それらを経ることなく存在するものでなければ、やはりどちらも幼稚なカタルシスでしかないのだと思います。社会運動と聞いただけで、自己中心的で自己顕示欲の強い人の何か、と直感的に嫌悪してしまうことも幼稚だと思います。だから、私は、できるだけ自分の心地よさとは何か、それが社会に関するものであればなおさら、立体的に説明できる人になりたいと常々思っています(あまり上手にできていないですけど)。

いうなれば、それが私のフェミニズム。心地よいことを心地よいと言える、なぜ心地よいかを説明できる、それがフェミニズムだと私は思っています。

おまけ・・

と、書きながら思ったのですが、10年以上前、ラブピースクラブさんのサイトにペンネームで投稿したエッセイ(たぶん、リンクは切れてるけどウェブ上に存在してたページなので私の文章以外の情報は必ずこのページではなく本サイトでのものを参照してください)で、あんまり変わらない内容のこと書いてました。つっこみどころも多いですが(これもか)。成長してないなあ。

「好き」「嫌い」してもいいんじゃない?








カテゴリー:リレー・エッセイ

タグ:くらし・生活 / フェミニズム / エロ