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「女」の文化?じゃああなたは?     荒木菜穂

2014.10.17 Fri

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前回の小林杏さんのエッセイ、カメラと一緒にしんどい状況を乗り越える、写真を通じて他者を想像する、カメラが単なる道具ではなく人の意識と連動していて、人と人との関係を媒介する(時には時空を超えても)様子に、凄まじい説得力を感じました。

どこまでも深く広く想像の広がるさまざまな事例に圧倒されつつも、ひとつめに挙げられていた「おじいちゃん」、自分の中でちょっと違うベクトルで気になる気持ちが生まれました。そういえば、私の「おじいちゃん」どんな人だっただろう?

私の父方の祖父は、小林さんが挙げられていた作品とは違い、一瞬で、本当にあっけなく他界しました。とある教育関係の法人の仕事をしていたのですが、その出張中に倒れました。私が小学生の時でした。よくある話ではありますが、病気で長期闘病、介護の末かいわゆるぽっくりか。前者の計り知れない苦労(もちろんケースごとに違いますが)に比べたら、後者は家族孝行とさえ言われますが、孫の立場からは、気がついたらおじいちゃんはもうこの世にいない、ってなんとも不可思議な悲しさで記憶しているところではあります。

一緒に散歩にいったり買い物に行ったり、私の中の優しい祖父のイメージは、死後いろいろ知った、祖父の当時の多忙さとはかなりかけ離れたものではありました。でも、食事を自分で用意していたり、身の回りのことは自分でするタイプの人だった印象があります。祖母もまた、しっかり自分の考えを持つ人で、私がジェンダーに関心を持ちだした頃は女性学に触れ、理解しようとしてくれたこともありました。今になって思うと、祖父とももっといろんな話をしたかったし、祖母とも、出会った女性学的なものは祖母にとってどのような印象でどう解釈したのか、などもっともっと話しておけばよかったと思います。

こんな祖父母や父母との関係は、おそらく自分の現在のジェンダーに関する考え方に多くの影響を与えたと思います。いわゆる団塊の世代のちょっと上ですが、学生運動などをしていた過去もあるせいか非常に民主的で、祖父譲りの「身の回りのことは自分でする」、家事も育児も決して他人事とは思わない父親、また、専門的な技術を持つ職業人であった母親と接してきて、それがあたりまえだと思っていた環境がありました。

特に、祖父と父親の存在は、家庭内には固定的な役割分担があって当たり前、男性ジェンダーがあたりまえという考えを身に着けるプロセスを経ず、成長していけたことにつながっていると感じています。家庭内のジェンダー役割や権力構造が強く、そんな両親や兄弟との関係からジェンダーに目覚めるという方も中にはいるとは思いますが、私の場合は、家族の外であたりまえとされているジェンダー、私の一番大事な身近な人たちの間にはそんなものあんまりないのに、どうして??というのがきっかけだったということです。

最近、女の関係性について書かれた本をなんとなく読む機会が多いです。女ならではの関係性、そこにあるメリットもデメリットも。白河桃子さんの『格付けしあう女たち』のような、少し前に流行した「女子カースト」という言葉も、女同士の格付け合いが結婚や子どもの有無や夫の年収、美醜、自身の地位など、男性とは異なる多様な軸で行われていること。そういった女性の「特殊性」は、女性同士の関係の特殊性をとりまくジェンダー構造を知る上で大事な内容ではあり、注目すべきことであるとは思います。

あるいは、女性の文化の持つ特殊性(場合によっては古典的なケアの倫理も含め)を、評価する昨今の動きも、非男性中心主義文化の意義としては大変心強い流れだなあと感じることも多いです。

女性同士の関係性や女の文化については、それらがフェミニズム的に評価すべきものあれ、女性をしんどくさせるものであれ、女性ならではの「特殊性」や「傾向」がある、それは、本質主義でもカテゴリー主義(ここは注意深くなる必要がありますが)でもなく、ジェンダー構造の持つ様々な要素や側面を批判的に再考する意味で、私は否定的になる必要はないと考えています。

でも、そこでいつも気になること、気持ち悪いこと。それは、そういった「女性の特殊性」を目にしたとき、非女性ジェンダーを生きる人たち、おそらくは男性ジェンダーを生きてきた人たちは、「じゃああなたはどう考えるの?」という、そういうプロセスが無いものにされているような何らかの作用でした。もちろん、男性とジェンダーについて考える文脈はかつてよりたくさんあるのですが、女同士の関係性やその背景のジェンダーの話となんとなく分断されているような気がするのです。

自分とは関係ない、社会の中の「例外の文化」として称賛するか蔑むか(女同士のいがみ合いを男たちが笑うように)。あるいは、どうして女の関係性や文化がこういう特殊性を持っているのか、それが現在自分が当たり前と思っている主流の(男性)文化にとって代わるようなことも想定して自分たちは想像力を持てるか。様々な「女文化と男性ジェンダー」の関係性があると思います。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.私がわりと好きで読んでいた荷宮和子さんの『なぜフェミニズムは没落したのか』(帯がすごいっすね)の中に、均等法世代に進んだ女性の職場進出を、男性たちの中には素直に応援する人たちもたくさんいた、というような内容が書かれていました。かと思えば、最近のネット上のバッシングでは、女性の社会進出、特に「女性の活用」やポジティブアクション的なものが絡んだりすると、だから男性の仕事がなくなった、逆差別だ、とう声などもしばしば見られます。私は、身近な他者である男性が、男性ジェンダーを当たり前と思わない生き方をしていることから、ジェンダーに関心を持ちました。それは、ジェンダーの問題が女だけの問題ではなく、男女が幸せに関係するための問題だという認識を持つきっかけでもあったと思います。

少し前にちょっと話題になったツイートで、私は結構好きだなあと思ったものがあります。

それは、「男女平等と言うと『じゃあ女は産休育休なしな』『もちろん女も躊躇なく殴るぞ』『レディースデイをなくせ』って意見を決まって見るけど何故誰も得しない方に進むんだ。本来あるべきは『じゃあ男も育休を簡単に取れるように』『女も男も殴らない』『男性が通いやすい○曜日にジェントルマンデイを』だろ」というものだったのですが、ジェンダーの問題は、男性にとって、女性にとって、がそれぞれあるのではなく、双方に同様に重要な問題として、相互作用的に関係する問題だ(うまく説明できないですが)と捉える必要性を示しているのかな、と思いました。

男の文化の特殊性は、おおむね批判的なものが多かったですが、フェミニズムは今までにさんざん「自分たちに関係ある問題」として論じてきたことと思います。女の文化の特殊性は、では、主流とされてきた男ジェンダーにとって、どういう意味があるのか。今度はそういう流れになればよいのにな、と思います。








カテゴリー:リレー・エッセイ

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