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京都96条の会、「立ち上がりシンポ」開催しました 岡野八代
2013.08.07 Wed
8月6日、京都市男女共同参画センター、ウィングス京都にて、wanでも紹介していただいた京都96条の会、「立ち上がり」シンポを開催しました。
東京を中心とした96条の会よりも、もう少し研究者と市民の人とが近い関係で、憲法についていろいろな疑問や意見を話し合える場、そして継続的なゆるやかな運動をしたい、との思いで、開催したのがこの「立ち上がり」シンポです。
まず、中里見博さんから、「憲法・脱原発・非暴力」という基調講演をしていただき(チラシでは、「脱」が抜けていました、すみません)、その後、わたし、アンヌ・ゴノンさん、島岡まなさんが短く、各自の研究テーマから憲法問題について発言しました。
中里見さんからは、「押しつけ憲法」という議論が見えなくしてしまう現行憲法制定の歴史と、非暴力という現行憲法がもつ平和主義から、軍隊・女性差別・原子力発電の三つの関係を明らかにし、それら一つ一つに厳しく批判がなされました。
ゴノンさんは、フランス人という日本在住外国人の立場から、日本の新自由主義経済に対する批判、市民として「友愛フィリア」の大切さが説かれ、島岡さんは、帝国憲法の下に制定された刑法や民法は、憲法以上に年を経ているのに、なぜ改正されないのか、当時の家父長制的な条文がなぜ残っているのか、という鋭い問題提起がなされました。
以下では、わたしの発言を再現しておきます。
わたしのコメントでは、中里見さんの講演をわたしの専門領域である西洋政治思想史とフェミニズム理論の立場から、もう一度捉え返してみたいと思います。そのことによって、現行憲法がいかに長い、「自由を求める人びとの苦難の歴史」の末にできあがっているか、ということをお伝えできればと考えています。
そのために、自民党改憲草案で不必要(=邪魔だと考えているのでしょう)として、さっくりと削除された97条と、「個人」という表現を嫌って、「ひと」という言葉に変更しようとしている13条の大切さを確認したいと思います。これらの条項は、近代国家の暴力と搾取・抑圧を受けやすい存在であった女性の権利を考えるうえでも非常に大切な条項です。
まず、このスライドを見てください。これは、17世紀イギリスに生きた哲学者ホッブズの代表作で、いまなお、近代国家はなぜ誕生したのかを考えるうえで、政治思想史的には必ず読まなければならない著作『リヴァイアサン』の表紙です。学生にもこの絵を見せて国家とはなにか、を説明するのですが、とても気味の悪い絵ですね。なによりも気味が悪いのは、海の怪獣といわれるリヴァイアサンを国家にみたて、その鱗一枚一枚が、国民として描かれていることです。そして、そのことは、鱗がいくら束になって抵抗しても、巨大な怪獣、国家には歯もたたない、ということを意味しています。
リヴァイアサンの絵が象徴しようとしているのは、国家が世界において最も強力な暴力装置をもち、あらゆる紛争を解決するしくみとして考え出された、ということです。日本の歴史を振り返っても、国家統一を果たそうとする権力者は、刀狩りをしたり、近代国家として明治政府が誕生してからは、国家だけが、つまり国家の軍隊と警察だけが「合法的に」武力をもち、殺人も「合法的に」遂行できるということです。なぜ、そんな恐ろしいものが西洋の歴史からすると、300年以上も存在することが許されてきたのでしょうか?ここで、みなさんに気づいてほしいのは、現在存在する国家というしくみは、時代の要請で、ようやく発見された、非常に暴力的な巨大組織だということです。その恐ろしさは、一言でいうと、この絵が象徴しているように、物事の正邪を決め、国家にとって不要、邪魔な存在を抹殺し、そうした行為こそが、国家の存在意義であると、自ら作った法律で決めることができる、ということです。国家の敵を殲滅する、これが17世紀になって登場してくる、国家の存在意義の一つです。
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スライド右に見える、8月11日のシンポジウム、これは、元日本軍「慰安婦」にされた金学順さんが1991年に、繰り返される日本の政治家たちによる「慰安婦」の存在否定発言に対して、沈黙を破って勇気ある告発をされた8月14日を、国際メモリアルデーにしようという運動です。シンポジウムのテーマが「戦時性暴力の被害者から、変革の主体へ」となっています。なぜ、戦時の性暴力被害者が、変革の主体なのでしょうか?それは、彼女たちの告発が、ここまでお話していた国家のような在り方は、まさに13条で規定されているような、わたしたち一人ひとりがもって生まれてきたとされる、基本的な人権を破壊しつくす、ということを最もよく伝えてくれるからです。そして、97条に記されている「過去の試練」とは、こうしたわたしたちの身近に存在する、国家の被害者たちの苦難の歴史を指しています。つまり、現行の憲法は、リヴァイアサンに象徴されてきたような、暴力的で残虐な国家を許さない、その暴走を止めるために存在しているのです。
4.ホッブズに戻ります。恐ろしいリヴァイアサンを発見した天才ホッブズですが、かれは他方で、「個人」という存在も発見しました。恐ろしい暴力装置国家が誕生すると同時に、「個人」という存在のあり方も誕生したのは、不思議なことですが、考えてみるべき大きなテーマです。ここでは簡単に、女性としての暮らしとの関係で触れさせてもらいます。
自民党の草案13条では、「個人」を嫌って「ひと」という呼称が使用されています。そのことと、自民党草案の前文で、「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため」と言われているように、国家のために国民が存在する、という主張を全面に出しています。そうした考え方と、個人という考え方は真っ向から対立しているのです。
女性は、「慰安婦」をめぐる安倍首相や橋下大阪市長の発言でも明らかなように、その生殖機能や性差のために、そして21世紀にはいってもなお、決定機関から排除される傾向にあるために、「女らしさ」を求められ、道具として「利用されやすい」立場にあります。「女のくせに」、「女ごときに」、あるいは、翻って、「女性のみなさんありがとう」といったさまざまな発言は、わたし一人の生き方において、よく考えると一部を占めているにすぎない女性であることによって、他の生きざまを否定するような発言です。戦時中の「慰安所制度」はその最たるものであり、国家の非常事態になれば、「女は国家の道具となって当たり前」という発想の現れです。それに対して、個人として尊重される、という考えは、個人はなにかの一部でもないし、つまり国家や家族のために存在しているわけではないし、その一部を切り売りされてはいけない存在であるという、非常に長い哲学的な思索を経て、ようやくたどり着いた考え方です。
Individuals という考え方には、その個人一人ひとりに価値が宿り、だからこそ、その人がこれが自分の幸せだ、と思う価値を自由に追求できる、ということを保障しようという考え方が表れています。そうした考え方は、一言で言うと「尊厳」という価値なのですが、現行の憲法で守ろうとしているのが、わたしたち一人ひとりの「尊厳」であり、国家が簡単に、小さくて弱いわたしたちの「尊厳」を破壊することを阻止しているのも、憲法です。この人類の知恵をわたしたちは手放してはならない、以上がわたしの主張です。