2009.06.25 Thu
6月18日、臓器移植法(1997年成立)の4つの改正案が衆議院で採決にかけられ、その結果、「脳死は人の死」とし、家族の同意の下に0歳からの臓器提供を認めるA案が、過半数の賛成を得て可決された。法案成立のためにはこの後参議院を通過する必要があり、参院では慎重論が強いといわれているから、実際に今回改定まで行くかどうかはまだわからない。もし政局がらみで衆院解散にでもなれば、廃案となる可能性もある。 だが、もしそうなったとしても(私はそれを期待しているのだが)、今回の採決でA案を支持した議員たちのうち一体どれだけの人が、脳死臓器移植の問題点について認識し、自分の票のもたらす結果について考えたうえで1票を投じたのだろうかという、疑念と違和感は残る。
脳死臓器移植というのは、そもそも「脳死」と宣告された他の患者から臓器を摘出することによってしか成立しえない医療である。つまりこの「治療」が可能となるためには、交通事故であれ、病気や犯罪や虐待の結果としてであれ、誰か他の人間が「脳死」とみなされる状態に陥ってくれることが前提になる。テレビなどのメディアでは「国内で移植が受けられるようになれば、この子の命が助けられるのに」といった、視聴者の情緒に訴える報道がなされることが多いが、移植に使われる臓器は何もないところから降ってくるわけではない。
「臓器不足」とは、言い換えれば「脳死者不足」なのだ。仮に日本の人工透析患者26万人全員を脳死臓器移植によって治療しようとするなら、13万人もの人が交通事故その他の理由で「脳死」と判定されることが必要な計算になる。わたしたちは、はたしてそのように脳死者の頻発する社会を望んでいるのだろうか。
移植大国であるアメリカ合州国では、交通事故や銃犯罪の多さがドナーの多さにつながっていると言われるが、そのアメリカでも慢性的な「臓器不足」は続いている。そのため日本とは逆に、これまでは禁忌の対象であった生体移植が増えつつあるとされる。「必要な人に臓器が行きわたる社会」とは、考えてみれば実は恐ろしい社会なのではないだろうか。
今回の改定案提出にあたっては、とくに日本では小児を臓器ドナーとして扱えず、そのため海外移植に頼らざるをえないことが問題視された。だが、「脳死」ははたして「人の死」なのかをめぐってさまざまな疑問がある中でも、とくに子どもの脳死判定に関しては、大人の場合以上に慎重な対処が求められている。交通事故や虐待の結果、「脳死」状態と宣告された子どもが、万が一にも移植用の資源とみなされて死を早められるような事態が生じることになってはならない。
政府や国会議員、そして医師が真剣に考えねばならないのは、どのようにしてより多くの脳死ドナーを確保するかということではなく、臓器移植をしなくてもすむような代替医療として何が可能かについてであり、その開発に力を注ぐことだろう。
なお私もその一員である、全国の大学教員でつくる「生命倫理会議」(代表 小松美彦)は、今国会での拙速な臓器移植法案採決に対して緊急声明を発表し、批判と提言をおこなってきた。詳細は、以下のサイトをご参照いただきたい。
http://seimeirinrikaigi.blogspot.com/
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