views
2484
映画評:『愛を読むひと』 上野千鶴子
2009.07.13 Mon
言えなかったこと、遂げられなかった想い。「過去の遺産」を内省的に描いた秀作。
ドイツ人は内省的な映画をつくる。いや、違った、これはイギリス人の監督スティーヴン・ダルドリーがイギリス人の俳優を使って作った映画だが、原作者はドイツ人だ。ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』、40カ国語に翻訳されて世界的なベストセラーになった。
15歳の少年と、21歳年上の女性のひと夏の恋。よくある話だ。映像はヌードやセックスシーンのサービスも忘れない。だが、違うのは、この出来事にドイツの「消えさろうとしない過去」、あのナチと強制収容所の記憶が関わっていることだ。 少年が夢中になった女性は、元アウシュビッツの看守だった。ケイト・ウィンスレットが、30代から60代までを好演している。イギリスの美人女優が、垢抜けないドイツ人のオバサンに見えるのだから、演技とはたいしたもの。職務に忠実で愚直で融通の利かない彼女は、電車の車掌としても看守としても、まじめに職務をこなす。少年と郊外にサイクリングに出かける一日、初めて花柄のワンピースを着る姿がいじらしい。ウィンスレットはこれでアカデミー主演女優賞をとった。もとは助演女優賞で推していたのを、主演でのノミネートになったというからその演技力がわかるだろう。
人生にはとりかえしのつかない過ちがある。15歳の少年はある日とつぜん理由なく彼女を失い、その8年後、法曹の学生として法廷で彼女と再会する。が、出会い直す機会を彼はふたたび失い、そして20年後。結婚に失敗した中年男の彼は、初老の彼女と、みたび出会いそこなう。
そのあいだ、この孤独な男が女にひたすら捧げた愛の行為は、本を朗読することだ。ホメロスからシラー、チェホフまで、ギムナジウムの教養主義がてんこもり。そして朗読の陰に隠された、女がどうしても認めたくなかった秘密が明かされる。何が人生で大事なことかは、人によってちがう。またも女とすれ違ったことに後から気づいて、男はほぞを噛む。
男を演じるのは『イングリッシュ・ペイシェント』のレイフ・ファインズ。うむむ、男前だね。彼には孤影がよく似合う。男の少年時代を演じているのはドイツ人の17歳、デヴィッド・クロス。『白い町で』『ベルリン 天使の詩』のブルーノ・ガンツがちょい役で出ている。ぜいたくな映画だ。
最後のシーンは原作にはない。よけいだと思う。これでは『マディソン郡の橋』になってしまう。人には墓場まで持って行くほかない記憶があるものだ。
監督:スティーヴン・ダルドリー
制作年:2008年
制作国:アメリカ・ドイツ合作
出演:ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファンズ、デヴィッド・クロス、レナ・オリン、アレクサンドラ・マリア・ララ
配給:ショウゲート
(初出 クロワッサンPremium 2009年7月号)
同誌に掲載された上野千鶴子さんの映画評を、これから毎週連載していきます。お楽しみに。