エッセイ

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改定臓器移植法の成立に寄せて    田中智彦

2009.07.31 Fri

 2009年7月13日、改定臓器移植法(A案)が可決・成立した。これで同法の枠内とはいえ「脳死」が一律に「人の死」となり、また基本的には家族(子供の場合は親)の承諾だけで臓器提供が可能となった。この間、「生命倫理会議」
http://seimeirinrikaigi.blogspot.com/
の一員として活動してきたが、もとよりこれで終わりではなく、また終わりにしてもならないと考えている。そこで以下、あらためて自身の見解の一端を記し、この問題が引き続き議論されてゆくための一助としたい。 法改定が取り沙汰されて以来、A案でなければ「臓器不足の解消」はできないと言われてきた。また、多くのマスメディアもそう伝えてきた。だが、「臓器が足りない」のは「脳死患者が足りない」からである以上、脳死患者が増えなければ「臓器不足の解消」は難しい。そして脳死患者の多くは交通事故の被害者であり、またいわゆる脳卒中の患者である。それゆえ交通事故が減るほどに、また救命救急医療が再建・整備されるほどに、脳死患者も減ってゆくことが予想される。

 実際、「移植先進国」ベルギーでは10年前、国・政府による交通事故対策が奏功した結果、かえってドナーが減少したために、犯罪被害者からの利用可能な臓器の摘出までもが提案されるに至った(朝日新聞、1999年3月17日)。この日本で、今も年間5000人を超える交通事故死者数が減少すること、今や「崩壊寸前」とまで言われる救命救急医療が再建・整備されることは、私たちの誰もが望むことだろうし、国・政府にとっては重要な責務のはずである。そして国・政府がその責務を果たせば、脳死患者もドナーも減らざるをえない。臓器移植にとって不可避のこの根本的矛盾を、国会議員やマスメディアはどこまで真剣に考えたのか。

 この矛盾はまた、一部の生命倫理学者が指摘し、巷間でもしばしば語られてきたように、「日本人は冷たい」からドナーが少ないのではないことも示唆する。例えば米国の場合、交通事故死者数は年間4万人前後で、しかも皆保険ではないために、富裕層以外は徹底した救命救急医療を受けられないとも指摘される。銃による死者も夥しい。そうであるとすれば、日本でドナーが少ないのは「倫理」が欠落しているからでもなければ、「政治」が怠慢だったからでもなく、むしろ米国ほど危険な社会ではないからだと言えよう。そしてその米国でさえ、「臓器不足の解消」はできずにいる。

 だがこうした指摘にはたいてい、「では移植を待つ日本の子供たちが死んでもいいのか」という問いが返される。しかしどれほど善意に見えようとも、それが実は残酷極まりない問いであり、他者に死を迫る「恫喝」とかわるところがないことは気づかれない。

 移植のための臓器とは、脳死状態になった別の子供の臓器である。子供の脳死判定は特に難しいとされるが、問題はそれだけではない。その子供がいわゆる「長期脳死」の状態なら、人工呼吸器の助けを借りながらも心臓は脈打ち、息をしている。抱きしめれば温かい。汗をかけば排泄もする。体を動かしもすれば成長もする。「長期脳死」になったある子供の母親は、「うちの子は生きる姿を変えただけ」と語っていたが、そこに居合わせれば、私たちの多くもまたそう感じることだろう。子供だけではない。私たちの連れ合いや親にしても、交通事故に遭い、あるいは脳卒中で倒れ、「生きる姿を変える」ことはありうる。

 ところが今や私たちは、その我が子・連れ合い・親を、人工呼吸器につながれているただの「死体」とみなすよう求められる。そして、かつてなら「ドナー・カード」を所持している場合だけだったのが、私たちの誰もが臓器提供の意思を尋ねられることになる。欧米諸国ではすでに、「心のケア」の一環として臓器提供を家族に承諾させる方法がマニュアル化されているという。脳死患者の傍らで、家族のためにと施される、実際には臓器提供のための「グリーフ・ケア」――それを「ケア」と称することができるには、よほどの傲慢さと愚鈍さが必要だろう。

 しかもその「承諾」とは、物言えぬ我が子・連れ合い・親に代わって、たとえ自分一人だけでも彼らの「生」にイエスと言うことではなく、彼らに麻酔や筋弛緩剤を打ち、メスでその体を切り開き、脈打つ心臓を切り取ることの「承諾」である。その後、臓器を摘出され「冷たくなった」我が子と、連れ合いと、親と再会する時、私たちは何を思うのだろうか。我が子に、連れ合いに、親に、「生」ではなく「死」を与え、それでも「よいことをした」と、そう自分に言い聞かせずにはいられないとしたら、しかしその「よいこと」とは結局のところ、誰のためであったことになるのだろうか。

 「脳死=人の死」とする科学的根拠はない。「脳死になれば遠からず心臓は止まる、だから人の死なのだ」という論理は、「長期脳死」の子供がいることだけでもすでに破綻している。また先に見たように、「臓器不足の解消」は原理的に――それこそ国・政府がその存在理由に関わる重要な責務を放棄する以外には――不可能である。だがそれにもかかわらず、ドナーが子供であれ大人であれ、「もっと臓器を」という声は止まない。しかしそうなると、その声は実はこう語っているのに等しいだろう――脳死患者は「人格」がないのだから、もはや生きるには値しない。だからせめてその臓器を、まだ「人格」のある者のために提供すべきだ、と。そしてそうであるとするならば、法改定がもたらすであろうものは、ありえない「臓器不足の解消」よりも、誰が生きるに値して誰が値しないかを決めること、「まともに感じ考えられなくなれば生きているに値しない」とすること、すなわち新たな「命の線引き」であることになる。

 一人ひとりの命の環が連なり、そうして社会が成り立っている。脳死患者の命はその中で最も弱い環の一つである。その環が今、政治と法の力によって断ち切られようとしている。最も弱い環であるために、多くの人々には我がこととして考えるのが難しい。しかし、その環が断ち切られるのを黙認してしまえば、新たな「命の線引き」がやがて植物状態や末期の患者に、さらには精神障害者や認知症の人々にまで適用されるのを阻むものはなくなる。したがって近い将来、例えば「尊厳死」の名の下に、そうした人々が「死」へと追いやられる時代になっても不思議はない。そんなことは家族が承諾しないとしても、医療保険が打ち切られれば、私たちにはほとんどなす術はなくなる。そして脳死患者と家族たちはすでに今、その瀬戸際に立たされようとしているのである。

 たしかに移植待機患者と家族の思いも切実である。だが、そもそも「臓器不足」は誰かのせいなのか。脳死患者と家族のせいなのか。交通事故に遭い、脳卒中に倒れてなお、「生きる」ことまで責められるとしたら、私たちの社会は今、弱い者が弱い者を責め、周囲の無関心と無理解の中で、最も力の弱い者が死に追いやられる社会になりつつあると言わざるをえない。そしてそのような社会では、愛する者がただ生きていること・生きていてくれることの有り難さを感じる心も、「命の尊さ」といった言葉の意味も、やがて失われてゆくことになるのだろう。

 そもそも人の生死の問題は、多数決に委ねられたり、法律の問題にすり替えられたりしてはならないはずである。しかるに国会議員の中に、改定案の採決自体が自分たちの任ではないと弁えるだけの「見識」と「品位」とを持していた者が、どれだけいたのだろうか。その点からすると、今回の法改定に関して特に憂慮すべきは、それが「拙速」であったことだけでなく、あるいはそのことよりもむしろ、国会にはその議決によって誰かに「死を与える」のも許されているという前例が作られたことにある。

 これは、フランスの哲学者コント=スポンヴィルの言葉を借りるなら、「民主主義の野蛮」と表現するほかはない事態である。とはいえ、日本は曲がりなりにも民主国家である以上、その「野蛮」は私たち自身の同意署名なしには招来されなかったはずであり、またそれゆえに、この事態を転換できるのも私たち以外にはない。
 
 かつて治安維持法が可決・成立したのは大正デモクラシーの時代であった。加藤周一はそれを「時限爆弾」と評したが、今度のそれはもっと穏やかな形で、だがそれだけに確実な仕方で、私たちの「生」を蚕食し、私たちを「死」へと追いやることになるかもしれない。はたして「そんなことは杞憂にすぎない」のだろうか。しかし、歴史はむしろそのような時ほど、やがて「そう思えた頃が懐かしい」と言わずにはいられないような時代が来ることを、繰り返し教えているのではないだろうか。

 「民主主義の野蛮」に抗して、誰もが生まれてきたことを、そして生きていることを、無条件に肯定される社会へと一歩でも近づくこと――そのためには、1年後の法施行を待ってからではなく、今この時から、脳死と臓器移植に関する徹底した議論と検証とが再開されなければならない。

カテゴリー:ちょっとしたニュース

タグ:身体・健康 / 田中智彦 / 生命倫理