4月中旬、昔の教え子Kから突然mailが来ました。mailによると、彼は今インドの西部のプネというところで、日本語教育に従事しているが、妻の関係しているNPOラリグラス・ジャパンの講演会が日本で開かれるから参加してほしいという呼びかけでした。

 その講演会は、「インドの人身売買の現場から~現地NGO代表とサバイバーが語る実情、そして未来」というもので、そのNGOの代表とサバイバーが来日して話してくださるということでした。Kのことは、卒業後ベトナムで日本語を教えている、名古屋の大学で勉強し直していると、情報が切れ切れに入ってきてはいたのですが、インドにいるとは知りませんでした。まして、その妻さんが、インドの人身売買という聞くだけでも恐ろしい問題にかかわっているとは、全く寝耳に水でした。

 「人身売買」など、遠いアフリカのニュースで少し聞いた気がするのと、日本の戦前の貧困な農村の娘たちのこととしてなら知っていましたが、この21世紀に堂々と生きて使われていることばとは思っていませんでした。そのサバイバーが日本に来て話すというのですから、めったにない機会だと思い、すぐ関心のありそうな友人を誘って参加申し込みのmailを送りました。

 ところが当日、私はよんどころない用ができて講演会には参加できませんでした。友人がひとりで出かけてくれて、その組織の代表である長谷川まり子さんの近著『少女人身売買と性被害「強制売春させられるネパールとインドの少女たち」その痛みと回復の試み』(泉町書房)を買ってきてくれました。会場に行けなかった代わりに早速読んだのですが、これはまた大変すさまじい内容の本でした。この本をかいつまんでご紹介します。

 この本は、ネパールから毎年1万2千人の女性がインドへ人身売買されている、と衝撃的に始まります。日々食べる物にも困っている貧しい農村で生まれ、口減らしのため、家族の糊口を養うため、親の借金の肩代わりのためなどの理由で、12,3歳の少女たちがインドの売春宿に売られていくというのです。この地方の娘たちは大変純心、従順で親の言うことは全部すなおに聞き入れます。親の言いつけに背くなど考えられないことなのです。国境を越えてインドに売られて、まだ生理も始まらないのに、毎日毎晩男の性欲の犠牲になるのです。

 さすがにそれは違法なので、警察が介入することになります。警察が売春させられている少女を保護しようと乗り込むと、その情報を先にキャッチした宿は、少女たちを狭い物置のようなところに押し込んで隠します。表に出ている少女は、警官に年を聞かれると、たとえば20歳と答えます。宿の主人にそう言えと教え込まれているのです。インドの成人年齢の18歳以上だと、本人の意思による売春ということで、警察は手が出せません。見るからに成熟していない12、3歳と見えても、少女自身は20歳と言い張るのです。

 やっと警察に保護されても、金持ちの売春宿の主人はわいろを使ってすぐ取り戻してしまいます。宿はマフィアも絡んでいるらしいのです。

 こうした少女たちを救出し、教育の機会を与え、普通の暮らしができるようにと支援する、ネパールの首都カトマンズに本部を置くNGO「マイティ・ネパール(母の家)」(以下「マイティ」)のすばらしい活動も報告されています。この組織は、インドとの東の国境近くの町に「スネハグリハ(慈しみの家)」という施設を運営しています。もともとはAIDS患者を保護するために作られた施設ですが、2006年からインドの強制売春やネパールのレイプの被害者を受け入れることになりました。

 精神を病む人も多く、精神科の治療が必要ですが、精神科の専門医どころかその教育を受けたスタッフもいません。貧弱な体制の中で、でもスタッフは学びながら、複雑な事情を抱えた女性たちのケアをまさに手探りで行っていきました。 何年も売春宿で過酷な生活を強いられていた少女たちは、初めは自分の名前も出身の村も親の事も何も話そうとしません。今までさんざん騙され騙されてひどい目に遭ってきたから、もっと悪いことになるのを恐れて何も本当の事は言わないのです。マイティのスタッフにも心を開きません。スタッフは気長に本人たちがほんとのことを言いたくなるまで待つのです。勉強したければ勉強させ、働きたければ働かせ、畑仕事やミシン縫製、ダンスなど好きなことを身に着けながら自立の道を探っていきます。精神を病んでいる場合もあります。急いで心理学を勉強し始めた看護師のスタッフたちが、時間をかけて接して、サバイバーたちをその人らしく生活できるように導きます。

 そして、保護されて年を経たサバイバーの中には、人手の足りないスタッフを手伝って、新しく救出された少女の心をほぐす役をし始める「先輩」も出てきます。自分も同じ経験をしてきたことで、その気持ちもよくわかっているから有力な助っ人になれるのです。

 インドのNGO「レスキューファンデーション」が行っているEKATRAプロジェクトについても紹介されています。

 長年保護されているサバイバーたちは、時間をかけて職業訓練を受けているのでスキルも高いし、外部から縫製の仕事など内職の注文を受けることがあります。まず、そうしたスキルが高くてリーダーの資質のあるサバイバーをトレーナーとして育てます。職業訓練の講師役になったトレーナーたちは、新しいサバイバーのトレーニングをします。アクセサリーづくり、縫製技術、コンピューター、基礎英語、バッグづくり、美容技術など、それぞれの技術を後輩たちに指導していきます。トレーナーには能力別に給与が支払われます。自分のスキルを武器にして意欲をもって指導にあたるトレーナーは、サバイバーたちのロールモデルとなり、目標となって、いい循環を生み出しています。

 講演会を主催したNPOラリグラス・ジャパンは、ネパールとインドの人身売買の被害者を支援するために、ジャーナリストの長谷川まり子さんが1997年に立ち上げた組織です。すごい仕事をしている組織です。Kの妻さんの話では、メンバーはみなボランティアでやっている、活動資金は一般の寄付で賄い、2つの現地のパートナー団体と活動をしていて、合計350万円~650万円を毎年寄付しているとのことです。

 日本からできることとしては、ひどい目に遭ったのち保護されて大変な思いをしながら暮らしている女性たちに毎年会いに出かけていくこと、今年も来てくれた、今年は新しい人が来てくれたと現地の人たちが喜んでくれることだと言います。そして、彼女はこういう事実をまずできるだけ多くの人に知ってもらいたい、知ったうえで、人身売買をやめようと声を上げてほしい、と言っています。 わたしもその一端を担うつもりでこのエッセイを書いています。でも、いちばん私が強く思うのは、インドという大国、そしてその隣国ネパールに対する不満です。政治家の怠慢です。

 インドは最近新興国として脚光を浴びています。ITにつよい若者の成功例がもてはやされています。国内総生産量もやがて日本を抜くとか言われています。けれどもその裏にこういう悲惨な事態が起こっていることはあまり知られていません。

 インド政府は、女の子の教育の機会を促進するため「ベティ・バチャオ(女の子を救おう)ベティ・パダオ(女の子を教育しよう)」という政策を打ち出しているそうですが、その政策とははるかに遠い所で、少女の売春が勢いを増しているというのです。

 まず少女たちが売春宿に売られることなく、3度の食事ができるように、村の人々の暮らしを保障してください。そちらの経済発展をまず優先してください。 発展するインドの輝かしい面を誇示する前に、少女売春を根絶するのが為政者のとるべき道ではないですか。