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『愛を読むひと』 について女友達と語る 石井 香江
2009.08.06 Thu
1995年にドイツで刊行された、法学者であり作家のベルンハルト・シュリンクのベストセラー『朗読者』が、スティーヴン・ダルドリー監督(『めぐりあう時間たち』『リトル・ダンサー』)によって映画化され、今年(2009年)3月はじめに、一足早くベルリンで観ることができた。主演のケイト・ウィンスレットが、第81回アカデミー賞で主演女優賞を受賞し話題となったのは記憶に新しいが、邦題『愛を読むひと』として、本年6月に日本でも公開された。日本では公開前に、「魂を揺さぶるヒューマン・ラブストーリー」と宣伝されていた本作品だが、これはそんな単純な「ラブストーリー」ではなく、少年から年上の女性への一方通行の「愛」、それが裏切られる厳しい現実ではないかと最初は感じた。 物語の舞台は戦後ドイツ。15歳のミヒャエル(デヴィッド・クロス)が、学校帰りに突如気分が悪くなり、我慢できずに道端で吐いている場面から始まる。そこにどこからともなく現れた美しい女性ハンナ(ケイト・ウィンスレット)。能面のように無表情で、動きも機械のように正確である。そんな彼女に手際良く、荒々しく介抱されるミヒャエルは、どことなく恍惚とした表情を浮かべている。黄疸だったためしばらく自宅で療養していたミヒャエルだが、回復するとハンナの家を探し出して、花を持って御礼に行く。「ガキに用事はねぇ」というオーラを漂わせる事務的なハンナ。しかし20歳近く若い、初々しく、穢れを知らぬ少年を前にして、狩人の本能を密かにざわめかせている様子を、ケイト・ウィンスレットは上品に演じている。ストッキングを履く様子をわざと見せつけ、少年の反応を確認。うぶな少年は一目散に家へと逃げ帰る。しかし、この一件で悶々とした状態を募らせてしまった少年は、懲りずにまたハンナの家を訪れる。そこで、身体が汚れていた少年は風呂に入ることをすすめられるが、風呂上りの少年をいつのまにか真っ裸になっているハンナが背後からタオルで拭き、「このために来たんでしょ!」 と少年を抱きしめる(それでも無表情なのが、怖いハンナなのであるが…)。少年は恋に落ち、それから二人の度重なる逢瀬が始まる。しかし、そこでハンナが少年に勉強を疎かにしないよう注意したり、シラーの戯曲やホメロスの叙事詩などの朗読を頼んだりするところは、ありきたりの「青い体験」モノとは違う。市電の車掌として働いていたハンナは、「勉強がバカみたいだって? バカ? あんた、切符を売ったり穴をあけたりすることがどんなことかわかっているの」と、学校をサボり、自分との関係に溺れそうな少年を母親のように諭し、少年も愛情ゆえにそれに従う。
ところが甘い日々は長く続かず、ある日ハンナは、忽然と姿を消す。初恋の女性に捨てられたと感じる少年は、心に重苦しいトラウマを抱える。そんな彼が彼女と再会するのは、それから五年後、ミヒャエルが法学部の学生として傍聴していた強制収容所の看守を裁く裁判の場であった。そこで、戦時中に強制収容所の看守をしていたハンナが、囚人にも朗読を頼んでいたという事実が判明する。実は、それは彼女が文盲であったからなのだが、本人は堅く口を閉ざす。文盲を隠すために筆跡鑑定を拒否したハンナは、あらぬ容疑も否定できず、重い罪をかぶることになる。こうして牢獄でその半生を生きることを余儀なくされた彼女に、ミヒャエルは自ら朗読するテープを送り続け、ハンナも文盲を克服しようと努力するのだが…。衝撃のラストは、皆さんに実際に観てほしい。
ハンナは実に謎の多い女性である。原作に、「ぼくが尋ねても、彼女は質問に答えなかった。ぼくたちは共通の世界に生きているのはなくて、彼女が自分の世界の中で与えたいと思う場所をぼくに分けてくれているだけだった。ぼくはそれで満足しなければいけなかった」と書かれているが、映画ではより一層、ミヒャエルはハンナにとって都合の良い存在として描かれているように感じられた。原作に比べて映画では、ハンナに人間的な感情の起伏、少年への思いがはっきりと表現できないがために、おとなしい「草食系男子」を食う「肉食系女子」という、愉快ではあるが貧困なイメージだけが、私の記憶に強く残ってしまったのである。私は自分が個人的に編集や発送などに関わっている、「女がつくる映画誌」『シネマジャーナル』(76号)に、この率直な感想を書いている。
しかし後日、大学時代に知り合い、卒業後もたまに会って話しをする女友達と食事をした際に、この映画のことが話題となった。私たちの意見は大きく食い違った。私たちは学生時代から、専門や性格、意見の違いを超えて、落ち着いて話ができる稀有な関係を築いてきた。彼女は企業勤めをし、私がフリーに近い立場で研究をしているという生活環境の違いが、お互いに刺激を与えているのかもしれない。今回も、違った角度からこの映画についてもう一度考えてみるきっかけを与えてもらった。
彼女いわく、ハンナは少年の母親のような年齢であるし、少年に本気になってしまったら、いつか若い女の子に浮気され、自分が傷つく時が来る、文盲をひた隠しにするプライドの高い彼女には、それが許せなかったのではないかと。つまりハンナは、たんに少年をつまみ食いしていたのではなく、確かに少年のことを好きだったのだという意見だ。私も正直そうあってほしいと思った。しかし私には、映画を観る限りハンナの心の中でそれほど大きな葛藤があったようには、やはりどうしても思えなかったのである。そんな彼女だからこそ、親衛隊に入り、戦時中には強制収容所の看守も務まったのだろうと思い込んでしまった…。
そこで、昔読んだことのある原作をもう一度読んでみることにした。原作を読むと、戦時中の経験が戦後のハンナの人生、その非人間的で機械のような手際よさや、秘密の多い少年との関係に影を落としていること、ミヒャエルが裁判を傍聴し、ハンナの生きたもうひとつの人生に触れ、また無期懲役刑で刑務所に入れられたハンナに面会し、文字の読み書きに励む彼女に接する中で、小さな「愛人」「朗読者」としてハンナに利用され、捨てられたという思いを少しずつ克服していこうと努力していたことも分かる。それは、ナチズムという過去をただ裁くだけでなく、その行為を理解しようとすること、この二つを実際に両立させることがいかに難しいかを物語ってもいる。映画を一度観ることをお勧めするが、二人の心の機微はもちろん、その背後にある戦後ドイツの過去の克服問題の一端が描かれた原作も、是非一緒に味わってほしい。
DVD情報はこちらにあります。
http://wan.or.jp/modules/b_wan/article.php?lid=4432
原作(翻訳)情報はこちらにあります。
http://wan.or.jp/modules/b_wan/article.php?lid=2584
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