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映画評:『わが教え子、ヒトラー』 上野千鶴子
2009.08.17 Mon
ヒトラーが“わが指導者”と呼んだ名優アドルフが、ユダヤ人だったとしたら?
ヒトラーをドイツ人たちは「わが指導者(マイン・フューラー)」と呼んだ。そのヒトラーが生涯でただひとり、「わが指導者」と呼んだ男がいた。その男がユダヤ人だとしたら? この映画は、そういう奇想天外な思いつきから始まった。戦局が悪化したベルリンでの、ヒトラー最後のクリスマス。かれは自信喪失し、不眠に悩まされ、意気消沈している。年明けには百万人の市民を前にした、戦意高揚のパレードと演説が待っている。この男の意欲を回復し、ふたたびドイツ人を熱狂させた1939年のヒトラーを再現するには、たったひとりの指導者しかいない。それは戦前ユダヤ人の名優として名を馳せたアドルフ・グリュンバウム。かつてヒトラーに発声や演技指導をしたことのあるこの俳優は、いまは家族とともに絶滅収容所であるザクセンハウゼンにいる。名案を思いついた宣伝相のゲッペルスは、彼を収容所から連れ戻す。
敵陣の中枢で監視下に置かれながら民族の仇というべきヒトラーを復活させるプロジェクトにたずさわるグリュンバウムを演ずるのは、『善き人のためのソナタ』で旧東ドイツの秘密警察員を好演したウルリッヒ・ミューエ。寡黙で抑鬱的で、企みを抱きながら本心は善良な、これほど複雑な人格を演じるのにこれ以上ふさわしい俳優はいない。東ドイツ生まれの彼は、昨年54歳で亡くなり、この作品が遺作となった。俳優が俳優を演じるこの役回りは彼にとっても本望だっただろう。これが最後の作品となるミューエの演技を見逃さないためだけにでも、この映画を見る価値がある。
原題は『ほんとにほんとのアドルフ・ヒトラーについての真実』。もちろんあまりにありえない設定だが、この背後に、ゲッペルスの信念、「ボクらがつくろうとしているのは本当らしく(・・・)見えることだ」ということばを置くと、真実とプロパガンダの違いが見えてくる。
演技指導はセラピーに似ている。ヒトラーは無抵抗なまま不条理な父親の暴力にさらされた子ども時代を回想し、愛人エヴァ・ブラウンとのベッドでも役に立たない自分を発見し、ベルリンの廃墟を自分の目から隠そうとする側近の嘘に激怒する。感情を取り戻したヒトラーは、劣等感にさいなまれた孤独で気弱な小男にすぎない。その事実を満天のもとに暴露して…映画は終わる。
監督:ダニー・レヴィ
制作年:2007年
制作国:アメリカ・カナダ合作
出演:ウルリッヒ・ミューエ、ヘルゲ・シュナイダー、ジルヴェスター・グロート、アドリアーナ・アルタラス
配給:アルバトロス・フィルム
(クロワッサンPremium 2008年10月号 初出)