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映画評:『潜水服は蝶の夢を見る』 上野千鶴子
2009.10.12 Mon
ロックトイン症候群を当事者視点で描いた驚異の映像詩。
ある日目覚めたら自分の身体が全身麻痺を起こしていた。わずかに動くのはまぶただけ。カフカの『変身』も真っ青な、そんな経験を当事者の視点から描く、なんてことができるだろうか?
ぼやけた視界、心配そうに覗きこむ見知らぬ人の顔の大写し。ゆがんで切り詰められた視野にようやくピントが合っていく……フィルムは意表を衝く出だしから始まる。
42才、働き盛り。ファッション誌ELLEの編集長。三児の父だが、浮き名が絶えない。連絡を受けて元妻が病院へたずねてくるが、妻が気にしているのはいまの愛人と鉢合わせしないか、ということ。
ロックトイン(閉じこめ)症候群。意識ははっきりしているのに、まったく動かない肉体のなかに閉じこめられる。脳梗塞やALS患者に起きる重篤な症状だ。それを彼は「潜水服」にたとえる。だが『潜水服は蝶の夢を見る』。同名の著書がフランスでベストセラーになった。実話にもとづく映画化である。
最後に動くまぶたの筋肉だけで、文字盤のアルファベットに反応する。それがコミュニケーションの唯一の方法だ。文字盤をひたすら読み続ける言語療法士と口述筆記の女性の声が、あとあとまで耳に残る。20万回の瞬きで本は書かれた。
わたしは原作を読んだ。だが、どうやって映像化を?
大病を経験したからといって人格者になるわけでもないし、悟りの境地に至るわけでもない。流行業界の先端で仕事をしていた、いささか軽薄でエネルギッシュな男に残されたのは、わずかに動くまぶたのほかには、家族や友人に対するあふれるような愛情と蝶のように羽ばたく想像力。それを監督はおどろくほど奔放な映像の洪水に仕立て上げた。ジュリアン・シュナーベル監督はこの作品でカンヌの監督賞と高等技術賞を受けている。
この映像処理の作法は誰かと似ている…と思ったら、あのゴダールだ。エスプリとユーモア、ナンセンスとノンシャラン。ヌーベルバーグの影響をて受けたであろう世代が、深刻な主題を映像詩に仕立てた。映画以外のなにものでもない映画!
肉体はロックトインされても、想像力は封じられない。「もし、わたしなら…」という恐怖と絶望に、それでも「生きている証」はあると蝶のようなメッセージが届く。原作者への最高のレクイエムだろう。
監督:ジュリアン・シュナーベル
制作年:2007年 フランス・イギリス合作
出演:マチュー・アマルリック、エマニュエル・セニエ、マリ=ジョゼ・クローズ、アンヌ・コンシニ、パトリック・シェネ
配給:アスミック・エース
(クロワッサンPremium 2008年4月号 初出)
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