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映画評:『マイ・ブルーベリー・ナイツ』 上野千鶴子
2009.10.19 Mon
定番のロードムービーに若い女の成功物語。…… それなのに引き込まれた。
ニューヨークからラスヴェガスまで、ルート66を舞台にしたロードムービー。そしてひとりの若者のビルドゥングスロマン(成長物語)。設定はありふれているが、永遠に使い回しのきく神話的祖型だ。ちがうのは、出かけるのが女、待つのが男であること。そしてセックスシーンがいちども出てこないこと。 ベスはふられたばかり。歌手のノラ・ジョーンズが素朴な娘の変貌ぶりを好演。行きつけのカフェで、毎晩残りもののブルーベリーパイを食べる。それをつくっているジェレミーという青年が話相手になってくれる。別れた男の部屋の鍵を預けて、他にも同じような鍵を青年が保管していることを知る。その鍵のひとつひとつに物語があることも。
ベスは旅に出る決心をする。行き先々でウェイトレスなどのアルバイトをしながら、「親愛なるジェレミーへ」と手紙を書く。ネットと携帯電話の時代に、おそろしくロウテクでたよりない通信の手段だ。発信元の住所もわからない近況報告がとどき、青年は焦(じ)れ、思いを寄せ、恋心を育てる。だがふたりを映す画面は、5600マイルの距離ですれちがったままだ。
ベスは彼をただの「友だち」と呼ぶ。英語では「男友だち」と言ったら、「つきあってる」つまりセックスしたことのある相手をさすからだ。
彼女は彼に自分の成長の記録の「あて先」、証人になってもらいたかったのだ。なぜなら場末のカフェで働きながら他人の人生模様を見つめている彼も、彼女と同じく「孤独な魂」であることを知っていたから。ジェレミー役のジュード・ロウが胸キュンとなるほど、よい。助演陣も個性派ぞろい。
中国・香港出身の監督、ウォン・カーウァイが初めて英語で作った映画。猜疑心を持って見た。アメリカ人の皮をかぶった中国人じゃないのかと、疑ってかかった。それなのに、引きこまれた。
こんなニューヨーカーは、たぶんどこにもいない。ここにあるのは現実のアメリカではない。監督が見つけた「アメリカというもの」の心象風景だ。孤独と無垢、感傷と純情、無謀さと無防備さ、成長と信頼……哀切で、胸の締めつけられるような「よきアメリカ」がここにある。甘いと言わば言え。すぐれた監督はアメリカに出会って、「わがアメリカ」を作品につくる。カーウァイのアメリカ、がたしかにここにある。
監督:ウォン・カーウァイ
制作年:2007年
制作国:香港・フランス合作
出演:ノラ・ジョーンズ、ジュード・ロウ、デイヴィッド・ストラザーン、レイチェル・ワイズ、ナタリー・ポートマン
(クロワッサンPremium 2008年5月号 初出)