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映画評:『譜めくりの女』 上野千鶴子
2009.11.09 Mon
どんな一流ピアニストも依存せざるをえない存在。譜めくりの、強さと怖さ。
うまい仕掛けを考えたものである。どんな一流のピアニストも依存せざるをえない黒衣がいる。譜めくりである。陰にいて目立たないが、ピアニストの生殺与奪の権力を握る。一瞬のタイミングのずれが演奏には命取りになる。なるほど信頼関係がないかぎり、だれにでも務まるものではない。ページをめくる女。彼女は、人生の致命的なページをもめくる。 ピアニスト。庶民の娘が階級のはしごを昇るにはうってつけの野心だった。だが少女はその野心を、入学試験の場でうちくだかれる。無神経な行為でそれを砕いたのは審査委員長のアリアーヌだ。
アリアーヌが弁護士の夫と暮らす裕福な家庭に、ひとり息子の世話係を志願してやってきたのは成長した娘だ。彼女は巧みな包丁さばきで料理をつくり、息子を危険なゲームに誘導し、神経症的なピアニストの信頼を獲得していく。娘はピアニストになくてはならない存在になる。静謐で説明の少ない画面に、緊迫したピアノの音が流れる。なにかまがまがしいことが起きる予感に、観客は支配される。周到にはりめぐらされた伏線に、ムダがない。
破局の仕掛けをすべて仕込んで、娘はピアニストの家を立ち去る。現場を見届けようともしないで。犯罪者は現場に立ち返る、というが、それも自分の犯罪の効果をたしかめたいがため。それすらしようとしない娘の冷酷さは、もっと底知れない。今どきこんな複雑な性格の娘を演じるのは、ダルデンヌ監督の『ある子供』で救いのない若いカップルの“できちゃった”少女を演じたデボラ・フランソワ。無表情で抑制のきいた演技が、うまい。
監督のドゥニ・デルクールは現役のヴィオラ奏者で音楽院の教授だそうだ。さすがに音楽業界のウラをよく知っている。このところ日本では、『のだめカンタービレ』の影響で、クラシック界の内幕ものがブームだが、実力勝負の音楽業界は少女マンガほど甘くない。どんなに過去に栄光があろうとも、実力のなくなった演奏家はただちに見捨てられる。
それにしても、ストレスはたまるわ、腱鞘炎にはなるわ、パニック障害にはなるわ。肩は凝りそうだし、嫉妬と競争は激しそうだし、音楽家なんて職業につかなくてよかった、とほっとする。自分の才能のなさを棚にあげて、胸をなでおろしたい向きにおすすめ。
監督:ドゥニ・デルクール
制作年:2006年
制作国:フランス
出演:カトリーヌ・フロ、デボラ・フランソワ、パスカル・グレゴリー、アントワーヌ・、マルティンシウ、クロティルド・モレ
配給:カフェグルーヴ+トルネード・フィルム
(クロワッサンPremium 2008年6月号 初出)
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