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リブに遅れたけれど、WANに間に合って、よかった。 やぎ みね
2010.01.07 Thu
女たちの歴史的な夜明け、ウィメンズ アクション ネットワーク(WAN)がスタートして半年。期待通り、世代をつなぎ、地域をつなぎ、ウェブで出会う女たちのうねりが、大きく広がっている。
40年前、まだフェミニズムもジェンダーも言葉がなかった頃、女の運動は、男を支える「惚れ共闘」でしかなかった。その反動から生まれたリブは、世のバッシングを受けながらも、したたかに生きてきた。私もまた結婚、子育て、介護、離婚を通して、遅れてリブに出会い、目を覚まされた。「リブに遅れたけれど、WANに間に合って、よかった」と、ほんとに幸運と思う。 子どもの頃に過ごした農場で、動物たちと、言葉はなくても、しぐさや表情で、ちゃんと気持ちは伝わると思って、大きくなった。人もまた、きっと同じに、みんな、わかりあえると思っていた。
ところが、ところが、人との関係は、なんと深く、迷いに満ち、複雑で、了解不可能なものなのか。
「関係とは、差異を生きること」。ドイツの宗教哲学者M・ブーバーは、人と人との関係を「我と汝」という理念型で語る。私と他者との間に距離を置き、互いに違いを認めあう。そして私は私を十分に生き、他者にありのままの私を伝える。それは私の投影ではなく、他者への同化でもない。他者もまた自らをありのままに生き、他者から返されたものを私がまちがいなく受け止める。そんな「あるかなきかの関係」が、ある一瞬にのみ成立する。だが瞬時ののち、それは「翻転」する。「我と汝」の関係とは、そのプロセスを生きることだと。
私もまた、このプロセスを生き、錯覚と思い込みと若気の至りで結婚したのかもしれない。200通のラブレターを書いて。そして20数年、「関係」を生きるより、「役割」を生きることに比重を移さざるをえない時を過ごしながらも、私の道を探そうと、もがきつつ、人とのかかわりを考えつづけてきたように思う。
夫の母の看護と看とりを5年、その後の義父との5年の生活は、望んで私が選択したことや、まだ若かったこともあり、子育てをしながらの看護も、あまり苦にならず、病を得て術後、声を失った義母との関係は、私にとって教えられることばかりだった。妻を送り、一人になった義父は次第に自立し、いい男の老後を見せてくれたと思う。介護で外出がままならないときは、一人で本を旅する楽しみを得た。やがて20年後、気ままに海外へ、道草の旅をしながら、かつて本で夢見たシーンを踏むことができた。
老親の世話の合間に、自立障害者の生活を支える運動に、小学生の娘をつれて学生たちとかかわった。1970年代後半は、まだ運動のなごりがあった時代。「そよ風のように街へ出よう」をスローガンに、障害者の自立生活を24時間支えるために介護者は何ができるか。「自立」は「孤立」ではない、「周囲」を必要とする。ならば「迷惑をかけていけばいいのだ」と障害者と健常者のギリギリの緊張関係を探っていった。たとえば「よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり」の親鸞と法然の関係のように。
その後、さまざまないきさつを経て、「家族」という排他的な制度のなかでは、女と男は決して対等になれない、私自身も「役割」を生き過ぎてしまった反省もあって、「お互い、もっと自由に生きよう」と、夫の提案を受け入れ、二人で離婚を選択した。五木寛之の『内灘夫人』の海を見たいと離婚旅行へ。内灘闘争跡のテトラポットに打ち寄せる日本海の波と風に吹かれて、「明日から、霧子のように何もかも捨てて働かなければ」と心に決め、翌日、職安を訪ねたけれど、45歳の専業主婦に働き口は何もない。しばらくお蕎麦屋さんで働くうち、思いがけず、女性の企画会社に誘われ、遅れたリブと出会うことになる。
シスターフッドに支えられた女たちの仕事は、実に楽しい。アサーティブな女同士の関係は、女のなかに隠れている何かを引き出す不思議な力を持っていた。何人もの女たちが、そうやって、「私の人生」を選びとっていった。私もまた、その一人だった。
いま、一人の「時間」と「空間」を享受できるのは何ものにも代えがたい贅沢だ。そしていつか、私も「あとや先」の「老い」という、もうひと山を越えなければいけない。思うに任せぬ身体や心になっても、そのときは堂々と周りに迷惑をかけていけばいい。そう思ったら、ほっと気が楽になった。
時代の流れとともに、女の生き方も変わり、少しは制度も進んだ。しかしなお女同士のつながりを阻む壁は大きい。それを跳ね返すツールはウェブサイトしかない。それが、WANを始めた私たちの結論だった。
WANに寄せられた女たちの熱い志を何より大切に、より豊かに、大きく、広げていかなければ。そのために私もWANとともに、ささやかに縁の下の力持ちになれたらいいなと思っている。