2010.01.22 Fri
社会人大学院生の男性と、「家族という制度からの自由」について議論をしていたときのこと。テキストは、牟田和恵『ジェンダー家族を超えて』だったと思う。
私たちは、なにも男女がペアになって、その中で子どもを育てるという家族だけを前提にした社会制度を守る必要はないのではないか。現実には、家族の中にもDVなどの暴力があることもあるのだし、子どもは愛情深く育てられた方がいいと思うけれど、その愛が生物学的親に限られる必要はないのではないか。それに、両親が子どもの育成に第一義的に責任があるとする考え方が、子どものための社会保障費が低いことを合理化することになって、一人親で子どもを育てる人が、十分なサポートが受けられない理由にもなっているのではないだろうか。
こういう議論をした後、ぽつんと彼は言った。
「でも、制度がなければ僕の家庭はもたない。」 「自分が稼いで、妻が家事育児を担当する」。そのような役割分担に基づいて、自分が家族のなかで夫・父としての位置を確保していられるのは、家族制度という制度上の恩恵があるからではないのか。この制度としての圧力がなくなったとき、たとえば、「子ども手当て」が子どもに与えられる、あるいはベーシックインカムによって子育て中の妻に対して所得保障された場合、自分は捨てられるだろう。
と、彼は思ったというのだ。
ぽつんと言ったそのことばには、その場にいた私たちは大爆笑(失礼!)してしまったのだが、でも、考えてみれば、このことばは深遠だ。
私自身は、制度として「ジェンダー家族」が優遇されなくても、つまり、たとえば扶養手当がなくなっても、相続権について妻だからといって特別に優遇されなくても、今ある家族を大事にするだろうと思う。悩めるときも苦しいときも寝起きをともにし、一緒に悩み語り、ともに泣き笑い、けんかしながら私たちは生きてきたのだし、そうやって築いてきた紐帯を放棄するつもりはまったくない。人間関係を維持するためにはメンテナンスが必要であり、それに費やしてきた努力や時間を考えるともったいなくて(!)、関係を放棄なんてできない。放棄するつもりがないから、特権的に位置づいた制度がなくなっても、自分の生活にはさしたる影響はないと思える。
逆に言えば、メンテのための努力をしてこなかったことを自覚している人こそが、「制度」にこだわりたいってことなんじゃないのだろうか? 「夫婦同姓がなくなれば家族の絆が弱まる」と、選択的別姓という民法改正に反対する人たち(の一部)は言うけれど、それって、家族の絆を維持しつづけるために払うべき努力をしていない自分の横着さを棚に上げて、家族制度にこだわっているのじゃないのかな?
制度があろうとなかろうと、うまくいかなくなる人間関係はある。一方、家族制度があろうとなかろうと、血が繋がっていようといまいと、家族としての良好な関係を持続する人たちもいるだろう。
そしてまた、現実に「家族」ということばで語られるような、「特別に親密だと思いあえる関係」というものがあるということを前提にして考えるとき、そしてまた、それは日々のお互いの努力によって維持されていくものだと思うとき、その関係をヘテロセクシュアル(異性愛)な関係としてしか認めない必要もないし、そもそもセクシュアルな関係がある必要もないように思う。
でも、そう思える私こそが、実態としての「親密な関係」というものを大事にしようとしているロマンチストでもあるんだろうなあ、と思ったのも事実。私たちは望む人間関係を築き続けることができるのだと、確信している自分というものに、あらためて気づいた瞬間だった。
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