2010.06.18 Fri
こんなに悲惨な状況でも、アメリカには希望はあるのか?
ニューヨークの黒人 スラム街、ハーレムで生まれ育ち、16歳のシングルマザーで2児の母。母親もシングルマザーで生活保護の受給者。母親の恋人だった実の父からレイプを受けて12歳で妊娠、生まれた子どもはダウン症。母親からはごくつぶしだの無能だのと罵られ、自分の男を奪った泥棒猫呼ばわりされる。ジャンクフードで太りすぎ、男の子たちからはからかわれる。読み書きも満足でなく学校では無口な問題児。そのうえ、血液検査で、父親からHIVウィルスを感染(うつ)されたことが判明し、赤ん坊にお乳をやることもできなくなった・・・。このまったく絶望的な状況が、プレシャスの現在だ。名前が「大切な宝もの」を意味するプレシャスなのは大いなる皮肉。これがあなたならどうする?こんな子があなたの前にいたらどうする? 1987年のハーレムには、いや現在のハーレムにも、いかにもありそうなお話だ。原作があるそうだが、映画化は無謀に思える。だってどうやって主役の女優を探すの?
それがいたんだね。リー・ダニエルズ監督はオーディションを続け、撮影直前になってハーレム出身のガボレイ・シディベを見いだした。映画初出演。フィルムはまるでドキュメンタリーのようにガボレイ演じるプレシャスの経験する困難と成長を追う。
「虐待する母」を演じる女優を探すのはもっとたいへんだった。演じたコメディエンヌ、モニークは、この演技でアカデミー賞助演女優賞を獲得した。孤独で、捨て鉢で、希望のない母親がさらに弱い立場の娘をとことん虐待するエゴイズムを、これでもかと体当たりで演じている。
脇役陣が豪華だ。歌手のマライア・キャリー、ロックのレニー・クラヴィッツ。問題を抱えた生徒たちを引き受けようとするフリー・スクールの教師を演じるポーラ・パットンがよい。プレシャスのような女の子にも「将来」があることを感じさせるロール・モデルになっている。こんな悲惨な状況にも希望がある、というのがオバマのアメリカだろうか。「わたしは高校を卒業して大学へ行く」とプレシャスは言う。母親とはきっぱり絶縁して。
エイズはもう死に至る病ではなくなった。感染しても投薬さえつづければ発症しない。だがそれもカネ次第。2児を抱えたプレシャスはこれからどうやって生きていくのか?健康保険もなく福祉も貧困なアメリカのこれが現実だ。それでも彼女を支える人々がいることがプレシャス。日本語版タイトルは、原作の『Push』より含蓄が深い。
監督:リー・ダニエルズ
出演:ガボレイ・シディベ、モニーク、ポーラ・パットン、マライア・キャリー、レニー・クラヴィッツ、シェリー・シェパード、ステファニー・アンドゥハル
配給:ファントム・フィルム
(クロワッサンPremium 2010年6月号初出)
カテゴリー:新作映画評・エッセイ