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彼女に椅子がさしだされた時 映画『セラフィーヌの庭』  川口恵子

2010.07.28 Wed

 彼女に庭があるわけではない。それどころか、彼女は人が汚したシーツを川で洗い、台所の下働きをし、掃除をし、わずかな日銭を稼ぎながら、余った時間を、小さな、陽のあたらない下宿部屋で、自前の絵の具で、絵を描くことにすべてのエネルギーを注いでいる。寝食を忘れ、燃え上がる創作意欲に突き動かされ、倒れるまで、魂の限りを尽くし、一枚の絵を完成させることに文字通り、心血を注ぐ。敬虔なカトリック教徒として聖歌を歌いながら。

 彼女の名はセラフィーヌ・ルイ。19世紀後半から20世紀半ばまで、生涯の大半を、社会の最下層に位置する人間として、労働に生き、描き、そして、精神に異常をきたし、人生の終わりの10年を精神病院で過ごし、死んだ。実在の人物だ。 映画『セラフィーヌの庭』(原題はSeraphine)の中で、彼女に「庭」が与えられたのは、唯一、彼女が収容された精神病院の中でだけであった。どこまで史実どおりかはわからないが、映画を見る限り、病院の中の庭につながる個室を与えたのは、彼女の才能を見出し、一時期、惜しみなく財政的援助を与え、彼女の個展を開き、絵画史に彼女の名をとどめることに貢献した画商ウーデの財力だった。画家の一生を、画商が左右する時代の話である。

 いやもしかすると、映画の最後に、彼女が病室の扉をあけ、目にした美しい緑あふれる光景は、彼女だけが見ることのできた幻影だったのかもしれない。「絵を描きなさい」と、ある日、守護天使の啓示を受けた日から、生涯、そうした幻影や幻聴にとりつかれて生きてきた人だったのだから。
あるいは、それは、マルタン・プロヴォスト監督の、彼女の生涯への、はなむけだったのかもしれない。生涯のほとんどを人々に蔑まれながら、孤独に生き、そしてなお、その孤独の時間こそを、創作の時間としていとおしみながら、芸術に魂を捧げた女性の最後の日々に、監督は、映像をとおして、祈りを捧げたのかもしれない。それほどに一途な生涯であった。

 私の心をひどくうったのは、その、幻影のごとき美しき緑あふれる光景を彼女が目にする直前、小さな椅子がひとつ、彼女のために、置かれていたことだった。その時、彼女の硬直した表情に、ふと、微笑にちかいものが浮かぶ。
 彼女に初めて椅子を差し出したのは、彼女の絵の才能を偶然見出した、前述の収集家・画商のドイツ人ウーデであった。家政婦仕事に多くの時間とエネルギーをとられ、十分に創作の時間をとれないでいる、疲れた無名の中年女性に、ウーデは、椅子をすすめ、肩に手をおき、座らせる。それは、社会的地位や身分を越えて、超然と存在する芸術的才能というものに、彼が敬意を示す瞬間であり、同時に、セラフィーヌが、初めてこの世で、画家として認められた瞬間でもあった。
 中庭での、この数分の映像を作り出したことで、映画は、画家セラフィーヌ誕生の瞬間を、彼女のそれまでの人生にふさわしく、つつましやかで厳粛な、清楚なものとして観客の前に差し出すことに成功している。

 だからこそ、ウーデの財政的支援をうけ、創作に打ち込み、絵も売れ始めた後の彼女の、次第に常軌を逸していく浪費ぶりが、いたましい。生きることに必要な知的理解度が足りなかったせいだろうか。やがて経済恐慌で財政状況が悪化したウーデに援助をうちきられた彼女は、事態を把握することができないままに、精神的不安の度合いをまし、異常な行動に走る。敬虔なカトリック教徒ならではの行動だが、日本人には少しわかりにくい展開だと思われる。
 カトリシズム、画家と外国人画商の関係、そしてブレッソン監督を生んだ峻厳な映画的リアリズムの伝統と、さまざまにフランス的なものに支えられた映画である。2009年セザール賞最多7部門受賞というのもうなづける。

 狂気すれすれの無垢と、無知と、敬虔な信仰に支えられた芸術家魂と、貧困ゆえのさもしさという俗までも演じきった女優ヨランド・モローに、心からの敬意を表したい。

『女性情報』2010年7月号掲載

■タイトル: 『セラフィーヌの庭』
■公開:8月7日(土)、岩波ホールほか全国順次公開
配給:アルシネテラン
c TS Productions/France 3 Cinema/Climax Films/RTBF 2008

カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:くらし・生活 / 女とアート / 川口恵子 / フランス映画