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ミス・コンテストに思うこと マダム・ルーズ
2010.11.21 Sun
大学園祭の真っ最中の季節になりました。
昨年の秋、娘の通う大学では学園祭にてミス・コンテストが開催されました。「初の」とも表現されたこの企画、大学当局は「公認しているわけではない」とコメントを出したということですが、色々考えさせられました。そもそも「公認しているわけではない」とわざわざ大学当局が言うということ自体が、ミスコンの存在についての、社会の評価を現している側面があるでしょう。おそらくは、「女性を美で判断するなんてよくないことだ」というのがその基調。
たしかにね。でも、それだけしか語ることがないほど単純なものでもないかも、とも思うのです。
マダム・ルーズが大学時代をすごしたのは、1980年代でしたが、当時も「ミス・コンテスト」を大学祭でやろうという動きがあり、それにとりあえず反対した記憶があります。でも、実は「とりあえず反対」に過ぎなかったんです・・・
当時から私は「見る側」「採点する側」のまなざしをもっていました。もちろん、自分自身が「女として」評価されることはわかっていました。「かわいいかかわいくないか」という判断対象として存在していることに無自覚でいられませんでしたし、その意味で、採点する側=男性/採点される側=女性という構図に、主催者(そのほとんどが男の子だったりしたわけです)が無自覚であることに対しては、その無神経さに苛立ちを感じていたのです。
つまり、マダム・ルーズは、評価する側と評価される側には力関係があることに自覚的であり、力がない側になるのは真っ平ごめんだし、そこに「女性」が貼り付けられるのは不公平である、と思ったわけですね。
実際、かつての私は「人を美貌で評価するなんて間違っている!」という家庭教育をしっかり受けていたのでした。ですから、私の人の容姿についての判断基準は「好きか嫌いか」であったわけです。ある顔が好きな顔かどうかだけが容姿の基準として「しかたない基準」であり、好きな顔に「美人」と名づけることはあっても、それで高校時代から「美人好き」を自認・公言して同級生男子にあきれ顔をされてはいたものの、自分の好き嫌いの判断基準がすべての人に受け入れられるものであるとは思ってもいなかったのでした。
だから、ミス・コンをやって自信を持って採点できると思う人の気持ちがよく分からなかった。で、「なんか変!」ということで反対!だったわけです。
でも、マダム・ルーズ、その後、少しづつミスコンに対する評価を変えつつあります。きっかけは一本のテレビドラマでした。
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「ツイン・ピークス」というアメリカのテレビドラマが一世を風靡したことがあったのですが、そのドラマの最後の方で、メインキャラクターの女性たちが、ミスコンに出るというシチュエーションがあったのです。脈絡があってのことだったのか、たんにレオタード姿を絵にしてみせたかったのか、よく覚えていないのだけれど、それで優勝し賞金を獲得した女の子が「大学への進学資金にする」と言ったことだけは鮮明に覚えている。
実は、マダム・ルーズとしては、大学=高等教育の学費はタダにした方がいいと思うのだけれど、しかし、それを待っていては大学へはなかなかいけない人がいるときに、ミスコンの優勝賞金で大学へ行くって、「なるほどー!」と目からうろこ。ミスコンが女の子の人生にチャンスを広げるんだー!この目からうろこ経験を契機に、私はミスコン評価を変えていったと思うのです。
ミスコン的評価基準の舞台へあがる自由もあがらない自由も、一度あがったけれど降りる自由も、その時はあがらなかったけれどやっぱりあがる自由も、同じように機会が保障されているのであれば、別段いいんじゃない?と思うようになっている今日この頃です。
誰とも知らない人に「評価」される不可解さを受け入れても、得たいものがあるのであれば、それはチャレンジの場として活用したらいい。実際、今回の娘の通う大学のミスキャンパスで優勝した人も、そしてこのところ各大学で優勝する人たちの多くも、「女子アナ」という職業を希望する人たちだったりします。
テレビの向こうの不特定多数に何を基準に評価されているのかわからないなかで、それでも「評価」されながら存在する自分、という仕事を引き受けようとする人たちが、集って誰とも知らない人に評価をされることによって、自分のステップアップを図っていくのであれば、それはぜんぜんOKじゃないかな。それは、私には過酷な世界に見えるけれども、過酷な世界を選ぶ自由も選ばない自由も、選んだけれど降りる自由も保障されているのなら、やってみたらいいよね。
女の子の人生選択の幅を広げることにつながるのであれば、ミスコンも捨てたもんじゃないんじゃないか?問題は「選択の幅を広げる」ことになるかどうかを見極め続けることなんじゃないかな、と今は思うのです。だけど同時に、一度乗ったステージから降りる自由も、降りたことに対して不利益が与えられない安全も、保証されるべきことは主張し続けていくべきだとも思うのです。
その意味では、ミスコンにいつもいつも反対するというわけではないけれど、ものは申すよ、いつまでも。というのが現在のマダム・ルーズの心境なのでした。
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