2011.02.15 Tue
私のソウル滞在も、残り2週間ほどとなりました。この1年、せっかく韓国に滞在しているのだから、旅行をたくさんして色々なものを見た方が良いというアドバイスをよく頂いたのですが、結局、ソウルをほとんど出ることなく過ごしてしまいました。それではもったいない!と、お世話になっている先生方が1泊2日の旅行を企画して下さり、先週、江華島(カンファド)へ行ってきました。
江華島は、ソウル市内から車で1時間半ほど、仁川空港の少し北に浮かぶ島で、住所上も仁川(インチョン)市に位置しています。
高句麗(コグリョ)・百済(ベクチェ)・新羅(シルラ)の三国時代から重要な軍事要地であったとされるこの島は、13世紀前半(高麗時代)には、一時皇帝が遷都したこともあったそうです。海上から半島を守るための重要な要塞として、朝鮮王朝時代の17世紀中ごろには、海岸に沿って、5つの鎮(ジン。軍隊用語で言う大隊)、7つの堡(ボ。同じく中隊)、53の墩台(トンデ。要路に石で築造した小規模防御施設)が作られ、それらの多くが現在は復原されています。
近代に入ると、1866年と1871年にフランス艦隊とアメリカ艦隊の攻撃を相次いで受けますが、1875年には、付近で示威演習を行った日本の軍艦「雲楊」をめぐり、いわゆる江華島事件が起こります。それを契機として、翌年には朝鮮の開国を定めた日本との修好条約(江華島条約)の締結がなされ、日本による植民地支配に向けた第一歩が、ここから始まったのでした。
近代史を専攻する私にとって、江華島と言えば、この江華島事件が真っ先に思い浮かぶのですが、実際訪れてみての実感としては、それとは少し違うものでした。もちろん、時間の都合で、江華島事件当時の激戦地であったという草芝鎮(チョジジン)を訪れることが出来なかったため、そういった印象が強かったのかもしれません。しかし、現地で入手したパンフレットや歴史博物館の説明では、江華島事件も「外敵」との抗争の一つに過ぎず、それも含めた「古くからの軍事要地」として江華島の重要性をアピールするような感じだったように思います。恐らくそれは、現在の江華島をめぐる政治情勢が影響したものでしょう。
では、どうしてその重要性をアピールしなければならないのでしょうか?それは、現在の江華島が、目と鼻の先にある朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)に対する「前線」の一つであるからでしょう。(写真は江華島と周辺地図。青い島が江華島で、赤い線は軍事境界線です。)
昼過ぎにソウルを出発した私達は、金浦市と江華島を結ぶ江華大橋(カンファデギョ)を渡ってすぐ、口蹄疫対策と思われる車両消毒を受け、江華島へと入りました。韓国でも口蹄疫や鳥インフルエンザの被害が甚大なものとなりつつあるため、滞在中、各所合わせて10回程度この処置が行われました。ソウルに住んでいると、ついその被害の深刻さに鈍感になってしまうのですが、現在の状況の深刻さを気付かされる経験でした。
最初に訪れたのは、江華大橋を渡ってすぐの甲串墩台(カプコットンデ)。昔から江華の外城として、江華海峡を守る要塞であったという同所には、砦とともに小砲なども展示されていました。対岸(金浦市)との間を流れる海峡には小さな流氷が浮かび、岸近くには黒くなった雪とも氷ともつかないものが多くうちあげられており、寒さと厳しさを感じる場所でした。
次に訪れたのが、今回の旅のなかでもとくに強い印象を残した、江華平和展望台でした。この展望台は、1966年に「制赤峰」(チェジョクボン。すごい名前です・・・)と名付けられた、島の北端の小高い丘の上にあり、北朝鮮側の領土である対岸との距離は2.8km(最短)です。写真2を見て分かる通り、江華島は、11月に騒動の起こった延坪島(ヨンピョンド)よりも北朝鮮側の領地(陸地)に近く、南北の軍事境界線スレスレのところにあり、展望台から北側を眺めれば、その近さがさらに強く実感されたのでした。
なお、展望台は民間人出入り統制区域内にあるため、向かう道の途中で軍による検問がありました。あまりにも「平和ボケ」しすぎだと怒られそうですが、江華島がそういった場所だということをほとんど意識していなかった私は、検問の存在自体に驚いてしまいました。第8回のハナ通信で取り上げた「板門店」(パンムンジョム)も「そういった場所」であり、さらに言えば、本当は韓国全体が「そういった場所」であったはずなのに・・・自分の緊張感のなさを改めて思い知りました。
運転者の身分証を見せて検問をパスし、臨時の通行証をもらって、展望台へ。(写真は民統線臨時出入証)2階が展望台と展示スペース、3階が展望台と休憩室になっているのですが、展望台ではガラス越しではありますが、目と鼻の先に広がる北朝鮮領の陸地を眺めることができます。
双眼鏡(有料)の後ろには、北側も含めた周辺地域の模型があり、どういった立地関係にあるのかよく分かるようになっています。(写真は周辺地域の模型)
私も双眼鏡で対岸を眺めてみましたが、とりあえず人の姿などは確認することができず、「ここがこれだけ冷えるのだから、あっちはどれだけ寒いだろう」とただ思いを馳せることしかできませんでした。(写真は、北側をのぞむ)
先ほども、寒さを感じたと書きましたが、江華島は体感温度としてソウルよりもかなり寒く、とくに北朝鮮との間の海には、ゴツゴツとした大きな流氷が流れており、ひときわ寒さを感じました。(ちなみに私は江華島で、生まれて初めて肉眼で流氷を見ました)
その後は、2階にある展示スペースへ。フロアの半分ほどを使ったカラフルでハイテクなものでしたが、前半は「江華と国防」の歴史、後半は北朝鮮に関する情報を集めた展示がなされていました。
とくに鮮やかなビジュアルによって目を引いたのは、「北韓への旅」(韓国では、「北韓」と呼びます)と名付けられたスペースです。(写真 北韓への旅)軍事力から政治過程(「北韓の挑発過程」などなど)、社会、歴史、文化に至るまで、ごくごくコンパクトにそれぞれのトピックが整理され、パネル展示されており、「へ~」とうなずきつつ、これを“旅”と名付けたことやここでこういう展示を見ることの意味、韓国の人々がこの“旅”を通して何を思うのか・・・など、色々と考えさせられました。
一泊して、翌日は、江華島観光の重要な見どころの一つである江華支石墓(カンファ・コインドル)へ。この支石墓は2000年にユネスコの世界遺産に登録されたそうです。目の前には真新しく立派な江華歴史博物館も作られており(内容の充実はこれからに期待という感じ)、恐らく世界遺産に登録されたことで、文化・観光資源としての整備がさらに本格化されたのではないでしょうか。
この他にも、江華島には150基余りの支石墓が点在しているそうです。青銅器時代に思いを馳せるのはなかなかに難しいながらも、教科書にも出てくるほどの遺跡を一面の雪景色のなかで目の前にし、圧倒されたような気持ちになりました。
最後に訪れたのは、17世紀半ば(朝鮮王朝時代)に設置されたという広城堡(グヮンソンボ)です。(写真左 広城堡敷地内、広城墩台内部)1871年に起こったアメリカの艦隊との戦闘「辛未洋擾」(シンミヤンヨ)の激戦地であったそうで、そのために亡くなった人々を追悼する碑(1978年完成)も置かれています。(写真右 辛未洋擾殉国碑)
1泊2日という短いものでしたが、青銅器時代の遺跡から現在の政治状況まで、それぞれに色濃い体験をしました。「江華島事件」だけで江華島を考えていた私にとって、それが一面的な理解であったことに気付く経験にもなりましたし、歴史観も含めて、江華島がどういった方向へ行こうとしているのかを垣間見る機会にもなりました。
一方で、海水浴シーズンともなれば人々が多く集まるのでしょうが、冷たい風の吹きすさぶ冬は人通りも車通りも多くなく、街の雰囲気もソウルとは大きく異なり(ただ田舎だということではなく)、それも印象的でした。
それにしても、やっぱり色々なところを旅行しておけば良かったな~!と、今更ながら惜しく思う今日この頃です。
※江華郡ホームページ(日本語版) http://japanese.ganghwa.incheon.kr/