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ハナ通信―韓国滞在記(14・最終回) 宇都宮めぐみ

2011.03.03 Thu

ソウルで1年間暮らして…

景福門内、勤政殿

昨年の2月20日に仁川空港に降り立ってから丸一年。あっという間に時間が過ぎ、日本に帰る日を迎えました。多くの方々の心遣いと努力のおかげでトラブルもなく、一年を終えることができました。

この一年間、いつも私が思ってきたことが、「日本人だとばれたくない」ということでした。ただ、以前(第5回)も書きましたが、外国からの観光客が多い繁華街などでは、日本語や中国語、英語など、接客に必要な外国語スキルを持つ店員が多くいます。店の前を通る人に対してどの言語を用いるべきかを一目で判断し、声をかけるという彼女ら彼らの視線の元では、私などは一発で「日本人」だとばれ、日本語で話しかけられてしまいます。

ですが、私は出来れば「日本人」だとばれたくないという思いが強く、何とかばれないように振る舞い、また韓国語で話をしようともしますが、それでも結局日本語で応対されるということがよくありました。彼女ら彼らにとっては、それが生きるためのスキルであり、日本語しか話せない観光客、あるいは日本語しか話そうとせず、相手にも日本語会話を期待する観光客に対応するために、一種のサービスという意味も込めて、そういった方法をとるのでしょう。そんななかで私は、「韓国語でも大丈夫ですよ」とこぼして、ささやかな「抵抗」(?)をするのですが、その「抵抗」が実を結ぶことは、そう多くはありませんでした。

そこで、なぜばれるのか?ということをいつも考えるのですが、実は外見によってばれることがほとんどでした。全身韓国で買った衣服や化粧品を身につけていてもやはり、「韓国人」はおろか、他の「外国人」ではなく、「日本人」だと、断定的に指摘されることが多くありました。友人や知人に会う度に、「なぜばれるのか」を聞くようになって久しいのですが、髪型・化粧・眉の太さ・歩き方・服の着こなし方、顔のつくりや表情、体型・・・などなど、それぞれの人がそれぞれに答えてくれたのですが、ほとんどの場合最終的には、雰囲気がどうにもこうにも「日本人」だというところで落ち着きます。

ところが、「ばれたくない」と言いながら思考錯誤する私に、友人が素朴な一言を投げかけました。「なんでばれたくないの?」と――。

私の場合、この一年、「日本人だから」という理由で韓国の人々から何らかの言葉や視線を投げかけられたり、不安な思いや嫌な思いをしたりしたことは、一度もありませんでした。それは私自身が気を付けていたからということももちろんありますが、しかし、10年前や20年前、ましてやそれ以前に韓国を訪れたとすれば、どうだったでしょうか。当時韓国を訪れた先生や先輩のなかには、韓国の人々の、日本や日本人に対する強い拒否感を表す視線や言葉にさらされた経験を持つ人が多くいます。植民地支配という歴史に根ざす韓国の人々の不信感と拒否感は、公衆の場で日本語を話すこと自体をためらわせ、口をつぐませるほどに強いものだったそうです。

そのような彼ら彼女らの経験談を心に留めつつ暮らしたためか、私は、「できればばれたくない」と考え、そうすることで、自分自身にとっても、そして韓国の人々にとっても、波風を立てないことにこしたことはないだろうと思って過ごしてきたのではないかと、今改めて思います。

それは、ある意味で「逃げ」だと言えるでしょう。波風を立てないことで、日本と韓国のあいだの溝や違和感を見ないふりしているのではないかと批判することもできるでしょう。ですが、あえて自己弁護するならば、生活者である私にとって、それは仕方のないことだったかもしれません。

そんな私ですが、ご縁があり、この3月から釜山にある某大学で日本語教師として働くことになりました。日本人であることが求められ、日本語で話すことを求められる(むしろ韓国語は極力使ってはならない)という環境に、もちろん戸惑わないわけがありません。しかも、「正しい」日本語で、標準語のイントネーションで話さなければならず・・・日本語の文法をきちんと意識したこともないながら、これまでとは別の視点で、日本と向き合おうとしつつあります。

ソウルにいた頃も、そして今釜山でも、主に接するのは日本学科(日語日文学科)の学生達です。そこには、日本の文化や芸能人・アニメが好き、ゆくゆくは日本人と同じくらいに日本語が上手になって、日本で就職したい・・・と語る学生がいる一方で、日本が好き、もしくは日本(語・文)学を専攻しているというと、韓国では良い印象を持たれないことが多いとこぼす学生もいます。論文の書き方や議論の立て方にしても、「日本で発表するならこれで良いけど、韓国で発表するには慎重にする必要がある」というアドバイスを受ける韓国人大学院生もいました。

こんなことはわざわざ書くことではないかもしれませんが、こういった風景の全てが、日韓の現実だと思います。戦前や植民地時代を経験した人々が少なくなっていくなかで、文化を通した交流が急速に進んでいく・・・確かに両国の距離は縮まりつつあると言えるでしょう。しかし、だからと言って、積み残した問題が解決されたわけではなく、放っておけば忘れられていく問題でもないはずです。そんな思いを強くした、一年でした。

最後に、日本語とも少し関わって、忘れられない話を――。ソウルでタクシーに乗った時のことですが、私が日本人であることを知った運転手が、流暢な日本語で話しかけてきたことがしばしばありました。近年の日本人観光客の増加に伴い、勉強を始めたという人もいましたが、なかには、1945年以前の植民地朝鮮で生まれ、学校で日本語教育を受けたため、基本的な会話が自然なイントネーションでできるという人も数人いました。

そして、つい先日、ソウルから釜山へ引っ越す前夜に、偶然ソウル駅から乗ったタクシー運転手のおじさんもそういった人でした。天皇と同じ年に生まれたという彼は、現在77歳。私が近代史を勉強していると打ち明けると、小学校時代を過ごした植民地期の生活のことや、解放後に日本人教師と再会した話などを語ってくれました。そして、物心のついた状態で植民地期を過ごし、当時のことを今しっかり語れる世代は、自分がほぼ最後なのではないかと言い、「歴史を勉強していると聞いたから、どうしても話しておかなければと思って・・・」と繰り返しつつ、熱っぽく語ってくれたのでした。

日本の若い人も、韓国の若い人も、当時のことを何も知らない・・・とつぶやきつつ話してくれた人もいました。こういった彼ら彼女らの言葉を、街を歩くなかで見られる当時の面影を、若い学生達が思い描く未来像と彼女ら彼らが向き合う現実を、TVを含め様々なメディアを通して表される日本への視線を敏感に感じ取りつつ、忘れず、書き留めつつ、これからも韓国で生活していこうと思います。

三清洞北村韓屋マウル

昨年8月15日からの短い間でしたが、私の「ハナ(韓国語で、“一つ”)通信」にお付き合い下さり、まことにありがとうございました。釜山での生活が落ち着いたら、また何らかの形で再会することができれば、嬉しく思います。

結びのご挨拶にかえて、ソウルで私の好きな場所の写真を二枚、お届けしたいと思います。

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