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芸術という名の魔物に身を捧げたヒロイン、映画『ブラック・スワン』評 川口恵子

2011.05.13 Fri

バレエ「白鳥の湖」から、それが本来もっていた幻想的な優美さや死の魅惑といったロマン主義的要素のほとんどをそぎおとし、悪魔、呪い、分身といったモチーフを借用し、現代ニューヨークの場末を舞台に、若く才能ある一人のバレリーナの野心と欲望の物語に翻案した、異色サイコ・ホラー・サスペンス映画である。

表題の<ブラック・スワン>とは、ヒロイン、ニナ(ナタリー・ポートマン)が、初めてプリマをつとめる新作バレエの役柄であると同時に、彼女自身の内に潜む(と映画によって規定された)ダークな欲望あるいはセクシュアリティの別名でもあるのだろう。

まずは、物語を紹介しよう。ニューヨーク・シティ・バレエ団に所属するニナは、シングル・マザーの母親(カンヌ国際映画祭女優賞を二年連続で獲得した実力派女優バーバラ・ハーシーの演技がみもの)と狭いアパートで二人暮らしをしながら、プリマを夢見てバレエにうちこんでいる。ただ、挫折した元バレリーナの母親は、娘に対して屈折した感情を抱いており、過干渉気味である。そして、それが、どうやら、彼女の身体にまで影響を及ぼしているらしいことが観客にわかるあたりから、この母の存在がぐっと不気味なものになる(「ママがこわい」って昔、少女マンガがあったなあ。母親の布団をめくると、ウロコがおちてたりするのだ・・・。本作でも、ある日、家に帰ってきたニナが、うす暗い部屋で、自分―母親―の肖像画ばかり描いている母の姿をみてぞっとする不気味な場面がある)。おまけに娘に嫉妬心まで抱いている。

ある日、ニナは、思いがけず、新作バレエ「白鳥の湖」のプリマに抜擢される。しかし、純真な乙女(白鳥)と妖艶な悪魔の娘(黒鳥)を一人二役で演じ分けるには、彼女には性的奔放さが欠けていると、フランス人芸術監督から指摘され、悩み始める。そんな折、彼女の前に、黒鳥役そのもののような、官能的なダンサー、リリー(ウクライナ出身のミラ・クニスが魅力的)が現われる。彼女はニナに友情を示す一方、監督に近づきプリマの座を奪おうとひそかにたくらんでいるようだ。一方、家では、母親が、嫉妬ゆえか、娘に対し不自然な態度を見せ始め、彼女を、次第に精神的に追い詰めてゆく。やがて、身の回りには、次々、不可解な出来事が起きてゆく。妄想か、悪夢か、数々のオカルト的現象に巻き込まれつつ、クライマックスの舞台が幕をあける・・・といったスゴイ展開だ。

バレエ「白鳥の湖」では、悪魔によって白鳥に姿を変えられた王女が、永遠の愛によって魔法から解き放たれ、人間に戻りたいと願うが、本作『ブラック・スワン』では、一人の生身の女性ニナが、黒鳥になりきろうとして、人間の領域からはみ出し、悪魔的領域にさまよいこむ。一連の怪奇現象は、プリマの重圧に耐えかねたニナの脅迫観念の産物とも解釈可能だ。アメリカ映画のサイコ・ホラーによくある、精神分析的解釈を逆手にとった演出といえる。

王子は出てこない。ある意味、プリマの座をめぐる<女のドラマ>だ。嫉妬まじりの母親のねじれた愛情、ライバルの女の姦計、元プリマ(素かメイクかウィノナ・ライダーのふけ顔がコワカッタ!)の逆襲などなど、暗い女の情念が渦巻き、ヒロインを脅かすホラーの下地となる。とはいえ、それらはあまりに紋切り型で、母娘関係以外は、説得力をまるで欠く。音も含め、過剰な演出も、目に余る。思いきりスキャンダラスな<舞台裏>を無理やり見せられた感じだ。バレエという<女性の領域>に、男性の欲望の視線が介入しすぎている。

かくして、ポルノグラフィックな男性の欲望の視線と、過剰なスペクタクル性を前提とするアメリカ映画によって無残に至高の芸術の領域から卑俗にひきずりおろされた「白鳥の湖」だが、その残滓が、唯一、かいまみえるとすれば、それは、ヒロイン、ニナの、「瀕死の白鳥」的な手の動きに見出せる。彼女は、バレエに全身全霊をかたむけ、完璧な舞台をめざそうと、芸術監督の過度な要求に応じ、役づくりに命をけずっているのだ。それが、息もたえだえな手の動きとなって、表れている。

そしてそうしたニナの姿は、〈バレエ〉を〈ポルノ〉で見せようとするダーレン・アロノフスキー監督の、〈俗〉な演出にたえる女優ナタリー・ポートマン自身の姿と重なって見える。彼女は、たしかにアカデミー賞主演女優賞受賞にふさわしい演技をみせている。それは、彼女が、おそらくは類稀な精神力をもって、この困難な役柄を「演じる」ことに徹底したからではないか。

その困難を思うとき、あえて指摘しておきたいのは、ポートマンが、単に、ニナという一人の女性を演じているのではないということだ。彼女は、抑圧的な元バレリーナのシングルマザーの下でけなげに言うことを聞きながらバレエにうちこむニナを演じつつ(けなげさがにあう顔立ちだ)、ニナが一人二役に苦しむ白鳥/黒鳥それぞれの役柄を演じ、さらには、ニナ自身の内側から次第にはみ出してくる狂気のヒロイン―それこそがブラック・スワンにほかならない―を演じる。

一つの役柄からもう一つの役柄へ。一人の女優が、二人のヒロインを演じ、観客の目をくらませる手法は、ヒッチコックの傑作『めまい』で、キム・ノヴァクが演じた黒髪のジュディ/金髪のマデリーンで、その上品な究極をみた。ヒッチコックが借用したのは、純潔の〈フェアレディ〉と妖艶な〈ダークレディ〉の対比という、ホーソーン、ポー、メルヴィルといったアメリカ白人男性ロマン主義文学ゆかりの文学的コンヴェンションだったが、アロノフスキー監督がバレエ「白鳥の湖」から借用した〈白鳥〉と〈黒鳥〉の対比も、その延長線上にある。純潔の白鳥と、みだらな黒鳥というわけだ。

バレエ技術は完璧だが、黒鳥を演じるには性的なものが欠けていると、芸術監督から批判されるニナを演じる時のポートマンと、次第にセクシュアリティを発露し、やがて(なぜか本番前夜に)スクリーン全体にそれを披露するポートマンの落差がいちじるしい。その落差をみせるのが、アロノフスキー演出の〈俗〉だとしても、幸いなことに、演じるポートマンの身体は、〈俗〉に堕していない。バレリーナの強靭で品位ある身体を保持しつつ、芸術という名の魔物に全身全霊を捧げ、正気と狂気の境界をふみこえてゆくヒロインを演じて、すさまじい。

クライマックス、本番の舞台に上がる直前の楽屋裏で、最後のサイコ・ホラー・サスペンス(ありすぎて逆にコミカル!)を演じ終え、意を決したように鏡に向かうニナ/ポートマンの表情が、素晴らしい。

現実を離れ、今まさに異界に入ろうとするプリマの虚心に、女優としての顔が重なる。

映画という魔物に、彼女もまた、身を捧げたのだろうか。

初出は『女性情報』2011年3月号。WAN掲載にあたり大幅加筆した。

『ブラック・スワン』5月11日(水)TOHOシネマズ 日劇ほか 全国ロードショー

配給:20世紀フォックス映画

(C)2010 Twentieth Century Fox

公式ホームページ:http://www.blackswan-movie.jp

カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:セクシュアリティ / フェミニズム / ジェンダー / 女とアート / 川口恵子 / 女性表象